カフェは便利な言葉ですよね。珈琲でもあり、または珈琲を飲ませてくれる場所のことでもあるのですから。今、日本全国津々浦々、たいていのところにカフェがあります。
でも、巴里にあって東京にないのが、サロン・ド・テ。「紅茶亭」ともいえば、ややそれに近いなるのでしょうか。サロン・ド・テを説明すれば。いや、以下の文章をお読み頂くのが早いかも知れません。
「女連を同伴してる場合は、極りのように自分はこの大通をマドレーヌの寺院のところまでユックリと歩いて、グラン・ブールヴァールに面するすぐ近くの豪華な『ド・セヴィーギェ侯爵夫人』という喫茶店に立ち寄るのを例としてゐたものだつた。」
柳澤 健著『回想の巴里』に、そのように出ています。『回想の巴里』の出版そのものは、戦後間もなくのこと。ただし、その内容はすべて戦前の想い出になっています。
柳澤 健は明治二十二年のお生まれ。東京帝國大學から朝日新聞に入り、朝日新聞から外務省。外務省では主に海外勤務。巴里にも長く暮した人物です。
柳澤 健の『回想の巴里』を一読すれば、サロン・ド・テの一端が窺えるでしょう。少なくとも男ひとりで入って行く場所ではありません。多くはマダムの憩いの場所。
では、柳澤 健は「ド・セヴィーギェ侯爵夫人」で、何を召しあがってのか。極上のセイロン・ティー。そして極上のマロン・グラッセ。
それというのも柳澤 健の説によれば。当時の巴里でのマロン・グラッセは、この店と、リヴォリ通りにあった「ランブルメア」とが双璧だったそうですからね。
また、『回想の巴里』にはこんな話も出てきます。
「わしのところでは佛蘭西人の職人は使ひませんよ。」
これは柳澤 健が行きつけにしていたフランス人テイラーの主人の言葉。なぜか。
「佛蘭西人といふ人種は、部屋の中に一日閉ぢ籠つて生地をカットするなぞといふ地味な商賣には向きませんや。」
そういえば、戦前の巴里には、イタリア人カッターが珍しくはなかったみたいですね。
まあ、洋服はカットで決まるわけですから。わずか一㎝の違いで、百点になったり零点になったりするのでしょうから。
ほどほどのカットのスーツで、美味しい珈琲を飲みに行くとしましょうか。