サヨナラは、よく口にする言葉ですよね。むかし、「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ………」がお得意のお方もいらしたように。
サヨナラもなかなか古い表現で。「左様ならば」の形が変って、「さようなら」になったんだとか。左様ならばは、今の言葉にすれば、「そうでしたなら」に似ているでしょうか。ひと通り話の区切りがついたところで、「左様ならば」と言ったんでしょうね。
「サヨナラ」も美しい日本語で。どこか異国の地を旅していて。まったく偶然に、「サヨナラ」を耳にすると、涙の湧いてくるものです。
「サヨナラ」が詩になった例に、『厄除け詩集』があります。井伏鱒二の訳詩。あまりに有名ではあるのですが。
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナ二アラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」だけが人生ダ
これはもともと中国の 干 武陵の『勧酒』という詩なんですね。それを井伏鱒二が日本語にすると、こんなふうになってしまうわけです。
井伏鱒二はお酔いになると、ボオドレエルの詩を口遊んだという。でも、一度も巴里には行っていません。飛行機には絶対に乗らないお方だったから。
ほぼ同年代で、巴里に行った人物に、獅子文六。獅子文六は巴里に住み、フランス人と結婚もしています。獅子文六の小説に、『自由学校』があります。この中に。
「今年始めて、白のサンダル型の夏靴を履いた。」
そんな一節が出てきます。「サンダル型の夏靴」。いいですねえ。
サンダル型の夏靴を履いて。詩集を探しに行くとしましょうか。