アインシュタインとアーミン

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone

アインシュタインは、偉大なる科学者ですよね。アルバート・アインシュタイン。
説明不用の偉人であります。
そのアインシュタインが日本にやって来たのは、大正十一年のこと。では、どうして、
アインシュタインが日本に来ることになったのか。「改造社」に招待されたから。
「改造社」は大正から昭和にかけて成功した出版社。その利益を社会のために、というので
アインシュタインをお呼びすることに。社長は、山本実彦。
アインシュタインは、大正十一年十一月十七日。神戸港に着いています。大正十一年は、
西暦の1922年のことなのですが。
大正十一年。アインシュタイン来日の話に歓喜したのが、岡本一平。すぐに仙台に行って、
山本実彦に会っています。
「ぜひ、アインシュタインに同行させて頂きたい」。
山本実彦はこれを快諾。今、岡本一平描くところの「アインシュタイン像」が多く遺っているのは、そのためなんですね。
列車の中でのアインシュタインを一平が描いたカリカチュア。鼻が大きく誇張されて。この戯画を見たアインシュタインのひと言。

「この鼻には思想が詰まっている」。

十二月二十四日には、福岡でアインシュタインの講演会。「福岡市大博劇場」で。午後一時から六時まで。三千人の聴衆が集まって。
アインシュタインの講演が終って。アインシュタインは黒板の文字を消し忘れた。この消し忘れたアインシュタインの黒板は、その後大切に保存されたという。
翌二十五日には、アインシュタイン門司に。門司の「キリスト教会」で、『アベ・マリア』を得意のヴァイオリンで弾いたそうですが。
アインシュタインと親交のあった作家に、トオマス・マンがいます。

「……………わが身の危険を犯してまで警鐘を鳴らしたということは、必ずや将来、ひょっとすると本当にそのことで生命を失うかも知れないわれわれにとって名誉ある経験となることでしょう。」

1933号5月15日。アインシュタインに宛てたマンの手紙の一節。
1930年代。ナチスの脅威に反対したマンを称えるアインシュタインの手紙への返信として書かれたものでしょう。
トオマス・マンが、1951年に発表した歴史小説に、『選ばれし人』があります。この中に。

「……………また、川獺の毛皮や匂いのよい黒貂の毛皮などではち切れんばかりに詰っていたし……………。」

これはある君主の財宝について。ここでの「黒貂」は、アーミンのことかと思われます。
アーミンは、冬になると、一瞬、姿を変える。純白の毛皮に。ただし、尾の先だけが、黒に。
この「黒い点」を使って、戴冠式のローブが仕立てられるのでです。つまり「黒い点」の数だけのアーミンが必要とされるのです。
英語の「アーミン』erm in e には、「王侯」の意味があるのも、そのためなのですね。
どなたかアーミン襟の外套を仕立てて頂けませんでしょうか。

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone