慶應と剣襟

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慶應は、慶應大学のことですよね。もう少し正確には、慶應義塾大学でしょうか。
明治になる前に、慶應年間に開かれた塾なので、「慶應義塾」の名前になったものです。
慶應義塾は伝統のみならず、優れた学び舎で、多くの偉人を送り出しています。
お父さんも慶應、そのまたお父さんも慶應。そんな例も珍しくはないようです。自分が学んだ学校に息子もやりたい。これはもう佳い学校のなによりの証拠でありましょう。
慶應義塾の出身者のひとりに、獅子文六がいます。例によって例のごとく、獅子文六のお父さん、岩田茂穂もまた慶應義塾に学んでいます。

「……………福沢の進歩思想を憎み、朝吹英二なぞと共に、福沢暗殺を企てたということを、聞いている。」

獅子文六が、昭和四十一年に発表した随筆、『福沢諭吉』には、そのように書いています。
福澤諭吉と、岩田茂穂、朝吹英二はともに大分県中津藩の下級武士の子。
自分たちは昔からの蘭学を学んでいるのに、福澤諭吉ひとりが英学を学んでいるのは怪しからん、というものであったそうです。
諭吉は諭吉で暗殺は覚悟の上で。用心してらしい。家を建てるにも、秘密の抜け口を用意して、家の者にも、秘していたとのことです。
ある夜。諭吉が帰途に進んでいると、「もし」と声かけられて。諭吉は黙ったまま家の中に入り。戸を下ろしてから、「どなた?」と返事したという。

岩田茂穂は福澤諭吉に学んで、どうしたのか。武士の商法。横濱で、「岩田商会」を開いています。「岩田商会」は、絹物商。明治以来、日本にやって来る異人さん相手の絹商。
その時代、なんといっても世界に誇るべきは「日本の絹」だったので、大成功。皆、
土産物に「岩田商会」の絹商品を買ったものであります。
獅子文六の本名は、岩田豊雄。岩田豊雄は大正十一年に、巴里に遊学。どうして岩田豊雄は巴里に行ったのか。芝居の勉強に。その頃の岩田豊雄は、演劇の道を目指していたから。
役者か演出家か脚本家かを目論んでいたので。
今もある「文学座」は、岩田豊雄が名づけ親なのです。岩田豊雄のほかに、久保田万太郎、
岸田國士の三人が語らって、「文学座」が誕生しています。
1923年頃。岩田豊雄、つまり後の獅子文六が写した写真が遺っています。岩田豊雄が、
三十くらいの時の写真。
明らかにその時代のラウンジ・ジャケットを着ているのですが。片前で、剣襟のデザインになっています。
剣襟は剣襟なのですが、上襟の幅が広い。上襟と下襟とが一体化しているようにも思えます。1923年頃の巴里の流行だったのでしょうか。
まさか「シシ・カラー」と命名するつもりはありませんが。
どなたか百年前の剣襟の上着を仕立てて頂けませんでしょうか。

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