刀は、スウォードのことですよね。剣の意味でもあります。
sw ord と書いて、「スウォード」と訓むわけですね。剣から想い浮かべる言葉に、
「ペンは剣より強し」があります。
「ペンは剣より強し」。
これは、1839年の英國にはじまったとの説があるようです。
英國の作家、エドワード・ブルワー=リットンが、戯曲『リシュリュウ』を書いて。この演劇の第二幕第二場に。「ペンは剣より強し」の科白が出てくるんだそうです。
エドワード・ブルワー=リットンには、『ペラム』の小説もあって。これは、かの
ボオ・ブラムメルをモデルにした物語だと言われています。
剣といえば、西洋式。刀といえば、日本式でしょうか。江戸時代以前の侍はみな刀を帯びていたものです。
それが明治九年になって、「廃刀令」。「廃刀令」とは言うものの、実際には刀の禁止令。
では明治九年からはすべての刀が姿を消したのか。必ずしもそうではなかったようで。
「…………その飾りは、奢ったものは純金にし、次は純銀にした。」
大正十一年に出た『鳴雪自叙伝』の一節に、そのように出ています。もちろん、内藤鳴雪の
自伝なのですが。これは明治九年に廃刀令が出された後の話として。
廃刀令は出たけれど、一刀だけ、やや短くして、凝った拵えの刀を帯びるのが流行になったと、内藤鳴雪は書いています。
刀は江戸期、武士であることの身分証明書だったわけで、そう簡単にやめることはできなかったのでしょうね。
それにしても、「純金の刀」。豪奢の極みだったものと思われます。もっとも内藤鳴雪自身は、「純銀の刀」だったと謙遜しているのですが。
江戸期にあって、今はないものに、関所があります。『鳴雪自叙伝』には、江戸時代の関所の話が詳しく出ています。
江戸期の関所は、女の場合、髪の中を調べたという。そのために関所の手前で宿に入り、髷を解いて、髪を洗った。関所を過ぎるとまた宿に入って、髷を結った。
女の髪型ひとつ考えても、関所は面倒だったようですね。同じく『鳴雪自叙伝』に、こんな話も出てきます。
「衣服も多くは唐桟に嘉平次平の袴位を着るし、あるいは前にいった、地方官会議の随行の時新調した、モーニングコートを着ることもあった。」
これは明治十三年頃の話として。この時代、内藤鳴雪は今の文部省に勤めていて、日本服のこともあり、西洋服のこともあったことが窺えるでしょう。
ここでの「嘉平次平」は、嘉平次織のこと。たいていは、袴地。それで、「嘉平次袴」とも。
現在の埼玉、入間の人、藤本嘉平次が考案した織り方なので、「嘉平次織」。細い縞柄で、浅葱が多かったらしい。
「………青年は紬の紋付の羽織の肩を聳かしつつ嘉平治袴の襞も崩さず端然とかしこまつて………………」
明治三十五年に、内田魯庵が発表した『社会百面相』に、そのような一節が出てきます。
内田魯庵は、「嘉平治袴」と書いているのですが。
「………黒紬の羽織に嘉平次平の袴、肩肱を怒らして……………………。l
小杉天外が、明治三十六年に発表した『魔風恋風』の一節にも、そのように出てきます。
これは、刀剣鑑定師の、佐久間信元の着こなしとして。
「道也先生は例の如く茶の千筋の加平地を木枯にぺらつかせるべく一着して飄然と出て行っつた。」
夏目漱石が、明治四十年に書いた『野分』にも、そのような一節があります。漱石は、
「加平地」と書いています。それはともかく、明治期には、嘉平次平の袴が珍しくはなかったと、考えてよいでしょう。
どなたか嘉平次平でスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。