ブロートは、人の名前にもありますよね。
たとえば、マックス・ブロートだとか。マックス・ブロートは、オーストリア出身の、作曲家。作曲家なんですが、作家でもあった人物です。
M a x Br od と書いて、「マックス・ブロート」と訓みます。1884年5月27日に、プラハに生まれています。
こんなふうにに説明するより、カフカの親友だった人物と言ったほうが分かりやすいかも知れませんが。
マックス・ブロートと、フランツ・カフカとが出会ったのは、1902年のこと。一歳、
カフカが年長だったことになるでしょうか。
1902年10月29日。プラハの大学で会ったのが、最初。カフカとブロートの親交は、
1924年まで続いています。つまり、カフカの死の日まで。
生前のカフカは、まるで毎日でもあるかのように、手紙、葉書を書いています。
「明日は展覧会に行けない、いやそもそもこれからも行けないということを、君に手紙するのをとうとう忘れるところだった。」
1906年2月19日の手紙の一節。こんなことまでも手紙にしています。
1902年には、やはり友人の、オスカー・ポラックに宛ててこんな手紙も。
「………エナメル靴に、英国製のネクタイに、きらきら光るボタンといった紳士連中で……………………。l
これは喫茶店の客の描写。でも、ネクタイが英国製と、どうして分かったのか。
カフカのお父さんは、ヘルマン・カフカ。ヘルマン・カフカは、プラハ目抜き通りで、高級洋品店を開いていたのです。
門前の小僧 習わぬ経を読むで、フランツもネクタイなどについては詳しかったのでしょう。
それにしても、1902年頃のプラハでも、「英国製ネクタイ」が尊敬されたのでしょうか。
では、フランツ・カフカ自身はどうであったのか。
「なにごとにも目立たないのが、彼の振舞いだったし、めったにその低い声を強めることはなかった……………………。」
親友のマックス・ブロートは、『回想のなかの カフカ』のなかで、そんなふうに語っています。
カフカが出てくる小説に、『ブレシアの飛行機』があります。2003年に、
ガイ・ダヴェンポートが発表した物語。この中に。
「………カフカのハイボタンの靴、黒いフェドーラ帽、それにウエストの詰まった裾のはためく新調のフロックコートも……………………。」
これはほんとうにカフカが1909年に、イタリアのブレシアを旅した時を下敷にした創作なのです。
プラハでは粋に見えた服装がイタリアでは古典的に見えたという内容になっています。
「フェドーラ」f ed or a は、ヴィクトリアン・サルドオの『フェドーラ』に因んだ帽子。
当時の主演は、サラ・ベルナール。
「…………サルドゥのやうな作品に体当りすることであり、それこそ、日本人の意気といふものであるまいか。」
三島由紀夫が、昭和四十四年に書いた『「皇女フェドラ」について』の中に、そのように出ています。
これは日本での演劇『皇女フェドラ』を観ての感想として。
たしかにフェドーラはヨオロッパならではの帽子であります。だからこそ日本人が挑戦すべてものでしょう。
どなたか完璧なフェドーラを作って頂けませんでしょうか。