シャンゼリゼとジレティエ

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone

シャンゼリゼは、パリの大通りですよね。長さにしてざっと、1、670メートル。幅にして、70メートル。
コンコルド広場から昔のエトワール広場に続く大通りです。とても一度では渡れないのではないかと思われるほどの道幅があります。
今も昔も、この大通りに面して店を出すのは、一流企業だと考えられてきたものです。たとえば、「フーケ」。フーケはシャンゼリゼの象徴的なカフェと言えるでしょう。

🎶 オー シャンゼリゼ オー シャンゼリゼ

以前、そんな歌が流行ったものです。たったこれだけでシャンソンになるのは、シャンゼリゼくらいのものでしょう。
シャンゼリゼ大通りを歩いた作家に、宇野千代がいます。昭和二十六年のことです。同行者は、宮田文子。
パリでの宇野千代は、高田博厚に案内してもらっています。
二月十日に日本を発って、四月十二日に、帰国しているのですが。

「街のことで言いますと、オスマンとかパッシイとかシャンゼリゼと言う街が、始めて来たものの眼には、どこも同じに見える。」

『私の巴里通信』に、宇野千代はそんなふうに書いています。宇野千代、五十三歳の時なのですが。

「二、三日前私はグランブールヴァールのピネと言う靴屋へ靴を買いに行きました。」

「ピネ」は、当時、第一級の靴屋でありました。
昭和二十六年といえば、宇野千代の『おはん』が話題になっていた頃。一方、「スタイル」の経営者でもありました。
『スタイル』はおしゃれ雑誌で、その中に「男子専科」というコラムがあって、それが後で独立した雑誌が、『男子専科』なのですね。

『スタイル』は、昭和二十一年に、復刊。宇野千代は昭和十一年に、『スタイル』を創刊。戦争の影響もあってしばらく休刊していたのです。
この時の『スタイル』は、当時人気のあった目薬の名前からつけたんだとか。この『スタイル』を手伝ってくれたのが、作家の北原武夫。後に北原武夫と宇野千代は結婚しているのですが。

さて、戦後まもなく、突然に、前田久吉が宇野千代の前にあらわれて。
「スタイルを復刊させませんか」
前田久吉は、当時、「産業経済新聞」の社長だった人物。その条件は、「紙と金は私が出す」。紙不足の時代でありましたから。
昭和二十一年十月、当時のみゆき通りに焼け残りのビルを見つけて。『スタイル』復刊。
その時、宇野千代が考えたのが、書留による先払い。現金封筒で雑誌代を送ってくれた人に、『スタイル』を郵送。これが良かったのかどうか。毎日、毎日、現金書留の山、また山。
宇野千代は空封筒に火をつけて、それで風呂を沸かしたという。
宇野千代が戦後、家を建てたのも、別荘を購入したのもすべては『スタイル』の売れ行きによるものだったのですね。

「私の記憶だと、「ゴッホの手紙は、小林さんのお宅でも書かれたに違いないが、或る部分は奥湯河原の「加満田」という宿屋で書かれたと思う。」

宇野千代は随筆、『あの頃の小林さん』の中に、そのように書いています。
宇野千代はその頃、文藝雑誌『文體』をも出していて、その連載のひとつに、小林秀雄の『ゴッホの手紙』があったのです。

シャンゼリゼが出てくる小説に、『失われた時を求めて』があります。もちろん、マルセル・プルーストの名作。

「大公夫人の門衛は、シャンゼリゼでひとりの青年に出会い、魅力的な人だと思ったが」。

また『失われた時を求めて』には、こんな一節も出てきます。

「お入りなさいまし。なんでもお望みのものを差し上げます」とチョッキの仕立屋は言ったが」。

マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』には、何度も繰り返して、「チョッキの仕立屋」が出てくるのです。
フランス語なら、「ジレティーユ」gilletier でしょうか。たしかにチョッキの仕立は難しいものですから。
限りなく身体にフィットしていて、なんの破綻もないようにしなくてはなりませんからね。
どなたか理想のジレを仕立てて頂けませんでしょうか。

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone