パイプとパラプリュイ

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パイプは、喫煙具のひとつですよね。「パイプ煙草」というではありませんか。
パイプから思い浮かべる随筆集に、『パイプのけむり』があります。團伊玖磨の名随筆。
團伊玖磨はもともと、作曲家。名作曲家にして、名随筆家。天が二物を与えた結果なのでしょう。
随筆における團伊玖磨の代表作は、『パイプのけむり』。昔あった『アサヒグラフ』の名物読物だったものですね。
『パイプのけむり』がはじまったのが、1964年6月5日号から。最終回を迎えたのが、2000年10月13日号。これは『アサヒグラフ』の休刊によるものです。
連載の回数にいたしますと、1、842回になるんだとか。毎週のことですから。團伊玖磨は一回も休むことがなかった。立派としか言いようがありません。
一回分の原稿量は、だいたい四百字詰め原稿用紙、六枚分。この六枚の原稿を書くのに、團伊玖磨は二日をかけたそうです。名随筆になるのも、当然でしょう。
しかもこの手書き原稿は、團伊玖磨が東京近辺にいる時には、自分で朝日新聞社まで届けに行ったという。
ところで、朝日新聞はなぜ作曲家の團伊玖磨に連載随筆を頼んだのか。
團伊玖磨の随筆が一部で話題になりはじめていたから。昭和三十年代のことです。
その頃、鎌倉に、同人の週刊新聞がありまして、『土曜日曜新聞』。詩人の、菊岡久利が出していたタブロイド版の新聞。
この菊岡久利を手伝っていたのが、やはり詩人の原仁太郎。原仁太郎が、團伊玖磨に、「なにか書いてみませんか。原稿料は出ませんが。」
それで、團伊玖磨は『土曜日曜新聞』に、随筆を連載することに。『土曜日曜新聞』は、主に鎌倉住民に配る新聞で。その読者のひとりに、川端康成もいたらしい。
ある日、偶然に團伊玖磨は、横須賀線の電車の中で川端康成に出会って。川端康成は團伊玖磨に言った。

「随筆はね、十万円のもとがかかっているのに、原稿料は一万円。だから値打ちがあるんですね。」

ところで、『パイプのけむり』の題はどんなふうに決まったのか。当時、朝日新聞社は有楽町にあって。八階がレストランの「アラスカ」。この「アラスカ」で、編集長の熊倉正弥と打合せしている時に、たまたま通りかかってのが、同じ社の、石崎
正。石崎 正は團伊玖磨に言った。
「君がくゆらしているパイプがいいよ。パイプのけむりだね。」
これで連載の題名が決まったんだそうですね。
『パイプのけむり』第一回の連載は、「ハンドバッグ」。

「とにかく、しかし、見たいのである。だが、何故そんなに見たいのだろう?」

團伊玖磨は「ハンドバッグ」の中に、そのように書いています。が、自分の人生の中で、一度も中を見たことはない。そうも書いてあります。

パイプが出てくる『日記』に、『断腸亭日乗』があるのですが。作者はもちろん、永井荷風。

「食後秘蔵せしをわかし砂糖を惜し気なく入れ、パイプにこれも秘蔵の西洋たばこをつめ徐に烟を喫す。」

昭和二十年二月二十五日の『日記』に、そのように書いてあります。大戦の最末期のことです。
戦後の昭和二十一年一月六日の『日記』には。

「洋傘を買ふ、弐百九拾円なり。」

荷風は戦後、ものが高くなったことに驚いているのですが。
やはり雨の日には、ちゃんとした傘を持ちたいものです。雨が止んで、傘を巻くとステッキに思える傘を。
フランスなら、「パラプリュイ」parapluie でしょうか。
どなたかステッキにもなるほどのパラプリュイを作って頂けませんでしょうか。

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