ダンカンは、人の名前にもありますよね。
ふつうDuncan と書いて「ダンカン」と訓みます。
たとえば、イサドラ・ダンカンだとか。伝説のダンサーであります。
イサドラ・ダンカンは1877年5月26日に、サンフランシスコで生まれています。また、これとは別に。1978年5月27日の誕生との説もあるようですが。
イサドラ・ダンカンのお父さんは、ジョセフ。お母さんの名前は、メアリーだったと伝えられています。
「アメリカの女流舞踏家で、イサドラ・ダンカンほど、私にとって、有名な人は、当時、いなかった。今世紀の初め、クラシック・バレエ全盛の時代に、この個性の強い天才は、裸足で、自由に、とびはねて踊った。」
黒柳徹子は、『トットの欠落帖』の中に、そのように書いてあります。
若き日の黒柳徹子もまた、イサドラ・ダンカンに憧れたお一人だったのでしょうね。
イサドラ・ダンカンが特別であったのは、すべて独創の踊りだったことです。
誰に学んだわけでなく、誰の影響を受けたわけでもなく。イサドラ・ダンカンの身体の中で発明された動きだったのですね。
もし、イサドラ・ダンカンに先生がいたとすれば、それは古代ギリシア文明だったでしょう。イサドラ・ダンカンは幼い頃から、古代ギリシア文明に惹かれていました。ギリシアの衣裳を纏い、裸足で踊ったのも、そのためだったのです。
イサドラ・ダンカンがプロのダンサーとして踊りはじめたのは、十三歳の時。
イサドラ・ダンカンはその後、アメリカを出て、ロンドンに渡っています。このロンドン公演で、イサドラ・ダンカンの踊りに興味を持った人物に、英国皇太子が。もちろん、後のエドワード七世。
エドワード七世は友人たちを招いて、イサドラ・ダンカンの踊りを紹介してもいます。
その頃、イサドラ・ダンカンは大英博物館で絵を観ていた。踊りのヒントを得ようとして。
イサドラ・ダンカンは閉館時間に気づかなくて。最後に館長が出て来て「閉館時間です」。
ところが館長はイサドラ・ダンカンの顔に見覚えがあった。いつかのエドワード七世主催のパーティーで。館長はイサドラ・ダンカンに言った。
「特別の許可証をお出しいたしましょう。」
イサドラ・ダンカンはロンドンの後、巴里にも。巴里でダンカンを観たのが、ロダン。ダンカンが『ヘンデルとグレーテル』を踊っている間に、ロダンは多くのスケッチを描いたという。
イサドラ・ダンカンが出てくる小説に、『アスペクツ・オブ・ラブ』があります。
1955年に、デイヴ・ド・ガーネットが発表した物語。
「イサドラ・ダンカン、ガートルード・スタイン、マリー・ローランサン」
これは「アレクシス」が出会った藝術家の名前として。
また、『アスペクツ・オブ・ラブ』には、こんな描写も出てきます。
「ワイシャツはタッサー・シルク製で、リアンダー・タイをしめ、」
これはジョージ・ディリンガム卿の着こなしとして。
「タッサー」tussah は、ポプリンに似た絹地。繊細な橫畝地。もともとのタッサーは野蚕の糸で織ったものです。
どなたかタッサーのシャツを仕立てて頂けませんでしょうか。