コート・ダジュールは、紺碧海岸のことですよね。
南フランスに位置しています。そこは、地中海。
カンヌ、ニース、モンテ・カルロ、モナコ……。すべてコート・ダジュール沿いの街であること言うまでもないでしょう。
昭和二年にモナコを旅した歌人に、土岐善麿(とき・ぜんまろ)がいます。
「カジノの内部は、王城やうに宏大壮麗だ。」
土岐善麿は紀行文『一人のモナコ』の中に、そのように書いています。
土岐善麿がカジノに入ったのは間違いないでしょう。でも賭けたのか、賭けなかったのか。勝ったのか、負けたのか。それについては何も書いてはいないのですが。
昭和七年にカジノを訪れた作家に、岩田豊雄がいます。
岩田豊雄には、『ルウレットを廻りて』の随筆があるのは、そのためです。岩田豊雄は、獅子文六の本名。当時は巴里に住んでいましたから、モナコに行くのも当然だったでしょう。
「モンテ・カルロは絵葉書よりも美しい。」
そんなふうに書いてあります。
獅子文六はこの随筆の中で、カジノの裏表について詳しく語っているのですが。
賭けに勝ったのか、どうか。それは分かりません。
1865年に当時のシャルル三世が、公設カジノを開いたので、「モンテ・カルロ」。
1780年には、すべての税金が廃止。それは今なお続いています。羨ましいことです。
大正十年十一月に、ニースに着いたのが、九鬼周造。これはヨオロッパ留学のために。九鬼周造、三十三歳の時のこと。
「巴里もずいぶん懐かしく思うけれど、ヨーロッパへの私の郷愁は主として「コート・ダジュール」への郷愁である。」
九鬼周造は随筆『藍碧の岸の思い出』の中に、そのように書いています。
九鬼周造が日本に帰ったのは、昭和三年、四十歳の時。ざっと九年をヨオロッパで過ごしているわけですね。
九鬼周造が名著『「いき」の構造』を発表するのが、昭和五年のこと。今からおよそ百年前のことでしょうか。
大正十三年からの九鬼周造は、巴里に住んでいます。
巴里ではフランス語の家庭教師を。その家庭教師が、若き日のジャン・ポール・サルトルだったという。
サルトルは、この時、二十一歳の学生だったのですが。
まさか九鬼周造との出会いから、哲学者になったわけでもないのでしょうが。
まあ、奇跡の出会いと言って良いでしょうね。
コート・ダジュールが出てくる小説に、『人生 使用方
』があります。1978年に、フランスの作家、ジョルジュ・ペレックが発表した物語。
「コート・ダジュール沿いのグリモーの母方の祖母の家で休暇を過ごしているときに、」
また、『人生 使用法』には、こんな描写も出てきま
す。
「上着、チョッキを着け、黒い靴をはき、先の円いカラーの白シャツに黒のネクタイをしめ、黒の丸い帽子を被っている。」
これは募金活動の男の着こなしとして。
ここでの「先の円いカラー」は、「コル・ロン」col rond のことかと思われます。
どなたかコル・ロンのシャツを作って頂けませんでしょうか。