背荷物
リュックサックは背中の鞄である。リュックサックの種類が多いことは言うまでもない。
今、よく使われるデイパックも元を正せば、リュックサックの仲間であろう。やや小型のものをナップザックと呼ぶこともある。
広く鞄は手に持つことが多い。しかし両手を空けておける鞄としてのリュックサックは名案であろう。
日本にも昔から、「背負い籠」 ( しょいかご ) があったように、古い時代から「背の鞄」は世界中で、自然発生的にあったものと思われる。「手の鞄」もあれば、「頭の鞄」もあり、「背の鞄」もあるというわけだ。
英語の「ルックサック」 rucksack は、ドイツ語の影響から生まれているようである。
「アルペンストックを手に、ルックサックを背に……」
1866年『ネイチャー・アンド・アート』誌の記事の一節には、そのように出ている。ただしここでの綴りは、 Rucksack とドイツ語風に書かれているのだ。当時の英国人は「ルックサック」を外来語と考えていたものと思われる。それはともかくこの一例は「ルックサック」の比較的はやい例なのである。つまり英語としての「ルックサック」は、1860年代以降のものであろう。
ドイツ語の「ルック」は、「背中」。「サック」は、「袋」。直訳すれば、「背袋」でもあろうか。
リュックサックはそもそも、アルプスの山岳地帯ではじまったとの説がある。アルプス高地の猟師たちの使った「背袋」が、今のリュックサックの源である、と。
猟師であれば鉄砲を撃つこともあろう、撃った獲物を入れておく袋も必要だったろう。しかも鉄砲を撃つには、両の手を空けておきたかったに違いない。
「ルックサック」は猟師にとって恰好の鞄であっただろう。そしてその「ルックサック」は猟師自身の手づくりによるもので、木の蔓や籐などで編んだものではなかったか。もし、そうであったなら、ますます日本の「背負い籠」と似てくるのであるのだが。
「それから僕らの飲食料滞在中一々リュックサックから取出すのはめんどうとあって、一時うつしておく気のきいた籠がいくつも天井から下がっている……」
加賀正太郎著『欧州アルプス越え』 (明治四十四年発表 ) には、そのように出ている。これは明治四十三年に、加賀正太郎がアルプスに登った折の紀行文である。
ここに描かれているのは、ベルグリの「クラブハット」の内部の様子。「クラブハット」は、山小屋である。一階と二階にベッドがあって、登山客はそこに泊めてもらう。ただ、その都度リュックサックをかき回さなくても良い工夫がなされている、との説明なのだ。
加賀正太郎 (1880~1954年 ) は、戦前の実業家であり、登山家でもあった人物。明治四十年代の日本に、本格的な登山を教えた人物でもある。
そして一節には、この加賀正太郎こそ、日本にはじめてリュックサックを伝えた人である、とも言われているのだ。いずれにしてもリュックサックの日本への輸入が、明治末のことであったことは、間違いない。
「ルックサックを担った男女の群れがアルペンローゼを帽子にかざして峠から峠へと歌って歩く。」
槇 有恒著『山村の人と四季 夏』 の一文。これもまた、戦前のアルプスの登山風景なのだ。ここでは「ルックサック」となっているのに、お気づきであろう。
槇 有恒は、明治二十七年の生まれの登山家。慶應大学在学中に、登山部を創った人物でもある。この槇 有恒と、登山を通しての友人であったのが、松方三郎。松方三郎は、松方正義の十三男。登山家にして、ジャーナリストでもあった。この松方三郎が大正末期、日本に紹介したのが、キースリングであるという。
キースリングは、スイスの鞄職人、ヨハネス・ヒューク・キースリングが考案したので、その名前がある。やや横長のリュックサックとでも言えば良いだろうか。リュックサック本体の両脇に大型のポケットが付く。だからこそ横長になるのであり、容量は殖えて、より安定もする。ひと時代前の登山には欠かせないリュックサックであり、今な多くのファンを持っている。
「三年前の夏のことです。僕は人並みにリュックサックを背負ひ、あの上高地や温泉宿から穂高山へ登ろうとしました。」
芥川龍之介著『河童』 (昭和二年刊 ) の一文。芥川龍之介もまた、山の登ったのであろう。では、いったいどんなリュックサックであったのか。