ピッケルとピアス・アロウ

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ピッケルは登山用の杖のことですね。英語のピッケル p ick el は、ドイツ語の「ピッケル」から来ているんだそうですね。
杖は杖なんですが、氷山には不可欠。ピッケルで氷を砕いて、足場を拵えるために。

「そのピッケルには頭がなかった。ピッケルとして最も重要なブレードとピークの部分、つまり金属部分が欠け落ちて木部と石づきだけが残っていた。」

昭和三十七年に、新田次郎が書いた小説『錆びたピッケル』に、そのような一文が出てきます。
昭和三十一年に発表された、井上 靖の小説に『氷壁』が。登山もまた、小説の題材になるのでしょう。この中に。

「ピッケルもこんどは梱包の箱の中へ入れてある。」

これは、「魚津」と「小坂」との、登山用品として。麓まではなるべく軽装でという計画なので。冬の穂高の、氷壁を登る物語。ピッケルが出てくるのも、当然でしょう。
大正十年に、アイガーの初登頂に成功したお方に、槇 有恒がいます。槇 有恒は、
アイガーの東壁から山頂を目指したのですが。

「それは鉤の類であつて、村のピツケル作りの名人シエンク爺さんが、八日終日の労作である。」

大正十一年『東京日日新聞』一月二日号に、槇 有恒は、そのように書いています。
しかもこの記事には、絵入り。それがどんなピッケルであったのか、一目瞭然であります。

「上端に鉤を附け、下端に三本の石突を作り、その一本は根本を輪にして自由に回転するやうにした。」

要するに、槇 有恒の特別註文のピッケルだったのでしょう。
昭和十年頃に。ピッケルを特別註文した人物に、大倉喜七郎がいます。

「………そのピッケルにじかに触らないで下さい。( 中略) これはオーストリア・アルプス第一という名工にわざわざ鍛えさせた芸術品です」

大倉雄二著『男爵』の、一文です。
大倉雄二は、大正八年の生まれ。大倉喜八郎の息子として。母は、久保井ゆう。
つまり大倉喜七郎とは、異母兄弟ということになります。
その大倉雄二が、喜七郎の遺品を眺めている場面なんですね。大正十年頃は、喜七郎はドイツ留学中で、登山にも親しんだのでしょう。

「………「おい、このネクタイやるよ。似合うぞ」 笑顔で趣味のよいケンブリッジのカレッジタイを高く差し上げて見せた。」

これは喜七郎から、大倉雄二がネクタイをもらうところ。
そのネクタイはどこから持ち出したのか。専用の大型の「ネクタイ・トランク」から。
大倉喜七郎は旅には必ずこの「ネクタイ・トランク」を携えたという。
大倉雄二著『男爵』によれば。戦前までの大倉喜七郎は、電話で洋服を註文したそうです。
サヴィル・ロウの「ヘンリー・プール」で。「ヘンリー・プール」には人台その外を置いてあったから。
昭和三年四月二十二日。大倉喜八郎が九十歳で世を去った時に。

「…………霊柩車を先頭に二番目には喜七郎の乗った十六気筒のオープンのピアサロー、次に喜八郎未亡人と喜七郎夫人の乗っている同じプアサローのセダンが続く。」

大倉雄二著『男爵』には、そのように書いてあります。おそらくこれは、
「ピアス・アロウ」P i erc e Arr ow のことかと思われます。戦前までは世界中の富豪が憧れた名車。「自動車史上最も豪華」と称されたピアス・アロウ。
どなたか現代版のピアス・アロウを作って頂けませんでしょうか。

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