正装快感着
イヴニング・ドレスは燕尾服のことである。燕尾服は「ホワイト・タイ」のこと。ホワイト・タイは夜間第一正装に他ならない。
イヴニング・ドレスに較べれば、ディナー・ジャケットは略礼装ということになる。イヴニング・ドレスは今なお現役で、たとえば宮中晩餐会などでは大いに活躍する。宮中晩餐会には限らず、舞台に立つ魔術師にも必要であろう。またクラッシック音楽の演奏者や指揮者も燕尾服を着ることが多い。
今の燕尾服が確立されたのは、十九世紀中頃の英国においてであった。今からざっと百五十年前のことであろうか。ごくふつうに考えて、洋服箪笥の隅から十五年前のスーツを引っ張り出すと、いかにも古く感じるものだ。
ところが今から百五十年前の流行服であるイヴニング・ドレスが、現在の正装とされるのは、奇跡である。
言い方を換えるなら、正々堂々と百五十年前のの服を着て、「これぞ正装なり」と胸を張れるのは、燕尾服以外にはないのではないか。これは痛快でもあり、快感でもある。
では、イヴニング・ドレスの快感はどこから生まれるのか。それはひとつには、ハード・カラーの襟の高さであろう。今日、燕尾服以外に、これほど高い襟は着ない。もし十九世紀の習慣に従うなら、襟は高いほど、硬いほど正式とされたものである。
この襟の高さと上着のフィット具合は連動している。燕尾服は前ボタンを留めずに着る。「あまりにもフィットしていて、留めることができない」の意味である。ウエイストコートのフィットは息もできないほど。
これはいかに労働からはるか遠くにいるかを示すためであった。卓上の塩ひとつ取るにも、人の手を煩わせる。身体を動かす状態ではないから。
つまりイヴニング・コートはその昔、労働の正反対に立つ人間であることを示すための服装だったのだ。
日本の着物も同じことで、なぜ「振袖」は長いのか。なぜ幅の広い帯を窮屈なほどに締めるのか。「今は働けません」の意味。その精神においてはイヴニング・ドレスも振袖も同じ位置に立っている。
「イヴニング・ドレス」は、英国でよく使われる言葉である。「燕尾服」に対する表現もまた、少なくはない。たとえば「テイル・コート」とか、「デコレイションズ」と言ったりもする。が、もっともその頻度が高いのは、「イヴニング・コート」であるように思われる。
いつもよくお世話になる、ハーディ・エイミス著『ファッションのABC』でも、「イヴニング・ドレス」を項目として掲げている。
しかし「イヴニング・ドレス」に瑕疵がないでもない。「イヴニング・ドレス」だけでは男性用か女性用であるかが分からないからだ。が、似たことは「テイル・コート」にも言える。ことに日本語に置き換える場合、「モーニング・コート」になる可能性なきにしもあらず。
「燕尾服」は、アメリカ英語の「スワローテイル・コート」を直訳したものと思われる。イギリスでは「スワローテイル・コート」はあまり一般的ではない。やはり「イヴニング・ドレス」が自然な表現である。
「ポーソンビーは、イヴニング・コートを着ていた。」
ハリエット・ウイルソン著『メモリーズ』 ( 1828年刊 ) の一節。ここでは「イヴニング・コート」となっているが、今日の燕尾服の前身であろう。夕食の際、身なりを整えて、食卓に向かう。それは少なくとも十八世紀の英国には生まれていた習慣なのであろう。
「シルク・サテンの裏を張った黒いヴェルヴェットのコート。両脇にゴールドのストライプをあしらった紫色のトラウザーズ。真紅のウエイストコート。レエスのラッフルを飾ったシャツ……」
マニーペニー、バックス共著『ベンジャミン・ディズレリーの生涯』の一文。これは1833年に、若きディズレリーが夜のパーティに出かけようとしているところ。ベンジャミン・ディズレリーは後に英国首相を勤めた政治家。この時、二十九歳。1830年頃の「イヴニング・ドレス」の一端が窺えるものである。文中、「ストライプ」とあるのは今の「側章」のことである。
1850年『ザ・ジェントルマンズ・マガジン・オブ・ファッション』誌10月号に、「イヴニング・ドレス」が紹介されているもちろん今の燕尾服に酷似している。ここでは白いシャツに黒のクラヴァットが結ばれている。そして黒のウエイストコートの下に、白のアンダーウエイストコートを重ねている。
つまり1850年の英国ではイヴニング・コートにホワイト・タイの習慣はまだ確立されていなかったわけである。
ところが1854年『ザ・ジェントルマンズ・マガジン・オブ・ファッション』誌9月号には、イヴニング・ドレスに白のボウ・タイを結んでいる。おそらく1850年代末に、イヴニング・ドレスにホワイト・タイの装いが完成されるのであろう。やがてこのホワイト・タイに合わせるかのように、純白のウエイストコートを組み合わせることになったものと思われる。
余談ではあるが十九世紀でのイヴニング・ドレス用のウエイストコートはすべてストレート・ボトムであった。つまりチョッキの裾は水平にカットされていたのである。当然、イヴニング・ドレスの下からは覗かない仕立てになっていたのだ。
「一等室のほうからも燕尾服の連中がだんだんとやつてくる。」
寺田寅彦著『旅日記から』 ( 大正九年刊 ) の一節。これはアラビア海から紅海に向かう船上でのこと。夜、船上舞踏会が開かれるので、船客が集まってくる光景。当時のことであるから、イヴニング・ドレスが常識であったのだ。
イヴニング・ドレスに代わってディナー・ジャケットが一般的になるのは、1930年代以降のことである。