カパ(capa)

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南蛮風味装

カパは、「カッパ」のことである。「合羽」が宛字であるのは言うまでもない。
カパは英語の「ケープ」 cape に近いものだろうか。
日本語の合羽は、ポルトガル語の「カパ」 capa から来たものである。フランスの「カプ」 cape 、イタリアの「カッパ」 cappa にも通じるものだ。これらの言葉はラテン語で、「頭」を意味する「カプト」 と関係があるらしい。
カパもカッパも今ではあまり見かけない衣裳になっている。しかし時折、カパの絵を見ることがある。それはカステラを食べる時に。よくカステラの包み紙に、南蛮風俗の絵が描かれていたりする。
カステラはその昔、ポルトガル宣教師から伝えられたと、考えられていて、しばしば南蛮屏風絵が使われたりする。その南蛮行列に見られる衣裳が、当時の「カパ」なのだ。

「其法衣はポルトガル語にはカッパといふ。昔、我俗其製に倣ひ、雨衣を作つた。」

新井白石著『西洋紀聞」( 正徳四年頃 ) には、そのように説明されている。つまりポルトガル人宣教師の衣裳だったから、「法衣」であった。その法衣を参考に「雨衣」としてのカッパが生まれたのであろう。少なくとも江戸時代初期に、すでにカッパは使われていたものと思われる。
そもそもポルトガル人が日本に交易を求めてやって来たのは、天文十三年 ( 1543年 ) のことであるという。おそらく日本人は南蛮衣裳としてのカパを見たことであろう。
ポルトガルでのカパは八世紀に遡るとのことである。そのカパは、主に宗教的儀式の折に羽織る礼服であったらしい。
十世紀のポルトガルでは貴族使うフォーマル・ウエアのひとつがカパであったとも。そのために、当時のカパは金襴銀欄をあしらった豪華な衣裳であったと伝えられている。そのようなカパが日本人の目を奪ったことは、容易に察せられる。
合羽があらわれるまでの日本の雨具は、蓑だけであった。蓑は草や木の葉を編んで一枚にしたレイン・コート。これまた偶然のことながら、ケープ状に肩から羽織る衣裳であったのだが。蓑とカパ、意外にも共通点があったわけである。
その時代のカパが絢爛たる衣裳であったのは、すでにふれた通りである。威厳を求める武将たちが注目したのも当然であろう。そしてまたカパは、鎧兜の武装の上に羽織ることもできた。
豊臣秀吉もまたカパに魅せられたひとりであった。大坂城の天守閣には数多くの緋羅紗のカパが並べられていたという。カパにも様ざまな色のものがあったが、中でも緋羅紗は最上質と考えられていたからだ。
豊臣秀吉の緋羅紗の、多くのカパ、それは権威の象徴だったのである。

「侍臣のものに命じて彼等の禮服であるカッパを取り去らせ、起立して全身を見得るやうに……」

島崎藤村著『夜明け前』の一文。これは1691年頃、徳川将軍がケンペルに謁見している場面。ケンペルはドイツの医学者。1690年、オランダ船の船医として長崎に来ている。その後約二年間、日本滞在して研究を続けた人物。
それはともかく、当時のカパは礼服の一種であり、室内でも着用していたものと思われる。

「カッパト云ふ詞は阿蘭陀の詞ナリ。阿蘭陀人の上ニ着ル衣皮ニ「カッパ」と云フ物アリ。其形式マネテ作リタルオバ、坊主合羽ト云フ……」

喜多川守貞著『守貞漫稿』 ( 嘉永六年刊 ) には、そのように述べられている。ただし「オランダ」とあるのは正確ではない。もちろん、「ポルトガル」である。が、当時すでに幕府はポルトガルを排していたから、著者はあえて「オランダ」に置き換えたものであろう。
江戸後期、庶民の間で合羽が流行るのは、歌舞伎の『忠臣蔵』がきっかけである。芝居の中で勘平が鷹匠に化ける。この時、鷹匠の衣裳である合羽を着て出る。この合羽が受けに受けたのだ。
合羽からげて 三度笠……。
それで歌に歌われるようになったわけである。

「雨は 今宵も 昔 ながらに 昔ながらの 唄を うたってる ( 中略 ) 倉庫の 間にや 護謨合羽の 反射 ( ひかり) ぞ……」

中原中也作『在りし日の歌』 (昭和十三年刊 ) の冒頭部分である。
「合羽」は懐かしい言葉である。しかし「カパ」はもっと見直してみたいエキゾチックな衣裳ではないだろうか。

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