黒澤とカーディガン

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黒澤で、映画監督で、といえば、黒澤 明でしょうね。
黒澤 明に名作が多いのは言うまでもありません。そのひとつに、『七人の侍』があります。『七人の侍』は日本で好評だっただけでなく。海外の映画にも、少なからず影響を与えてもいますし。
「難産の子は大きく育つ」とか。『七人の侍』もまた、難産につぐ難産だったようですね。『七人の侍』のクランクインは、昭和二十八年五月二十七日。で、完成予定が、九月十七日。

「麦の刈り入れが終わったころ、どかどか村に入ってくる野武士がテーマになっているでしょう。だからそれに時を合わせてクランク・インしたのですよ。」

黒澤 明は、当時のインタビューに応えて、そのように言っています。最初のロケ地は、伊豆長岡。でも、凝りに凝った黒澤のこと。天気待ちもあって、撮影は大幅に遅れて。
『七人の侍』のプロデューサー、本木荘二郎は、胸の内ポケットに辞表を入れて。黒澤 明も会社に対して、一筆。
「制作中止、監督変更、いずれも結構です。」
でも、制作本部長の森 岩雄は、耐えた。耐えに、耐えた。
『七人の侍』には、雨の中の決戦場面がある。黒澤はその効果音が気に入らない。結局。大きな水槽を作り、壁土と水を入れて、泥を再現。その上を擬音係が裸足で走って、創ったんだそうです。
『七人の侍』の映画音楽の印象として、黒澤はドヴォルザークの『新世界より』があった。「こんな音を創って欲しい」。映画音楽の早坂文雄に言った。早坂文雄の助手のひとりに、武満徹がいたという。
『七人の侍』が完成したのは、昭和二十九年四月二十一日。関係者全員が、泣いた。『七人の侍』の総予算。2億1千万円。その時代なら、7本分の予算。『七人の侍』は、「七本の映画」でもあったんですね。
1954年に、イギリスに生まれたのが、アン・クリーヴス。アン・クリーヴスが2010年に書いたのが、『青雷の光る秋』。この中に。

「ドアがあき、モーリスがはいってきた。綿のシャツに灰色のカーディガン。」

モーリス・パリーはフェア島の学者という設定。もしかしたらフェア・アイルのカーディガンかも。
さて、なにかカーディガンを羽織って。黒澤 明の古い映画を探しに行くとしましょうか。

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