鷗外とオオトクチュウル

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鷗外は、もちろん森 鷗外のことですよね。鷗外は明治の文豪として有名であります。たとえば、『高瀬舟』は、大正五年に、鷗外が発表した短篇
淡々とした語り口の中に、深い人生がこめられていて、名人藝という他ありません。だからこそ、国語の教科書にも採り入れられるのでしょうが。
森 鷗外には多くの傑作があります。が、鷗外はその一方で、軍医でもありました。一軍医としてはじめ、ついには軍医おしての最高位にまで昇りついた人物。
ここのところを今に置き換えて、平たく申しますと、一社員から社長になったのと似ています。社長として、まことに多忙でもありました。その傍ら、名作を書き遺した。森 鷗外こそ偉人というべきでしょう。
でも、森 鷗外にはもうひとつ、意外な一面があったのです。海外雑報を、無署名で、書いた。よく新聞記事に、スイスのジュネーヴで三つ子が生まれた、なんてのがありますね。あれが、「海外雑報」。むかしはどうかすると、「埋め草」なんていったものですが。紙面が余ったから、なにか記事でも入れておくか、といった感じの。
明治四十二年に、『スバル』という、ある種の同人誌が出ています。この『スバル』の「海外雑報」に、鷗外が名を伏せて、筆を採った。鷗外の「海外雑報」は、まことに迅速でもありました。ヨオロッパの記事がすぐさま訳されて、載る。鷗外はいったいどのようにして、「海外雑報」を仕入れていたのか。不思議に思われてくるほどであります。
ただし今は、れっきとした鷗外の著作として、『椋鳥通信』として纏められているのですが。この中に。

「巴里流行の婦人服は、色彩より形に重きをおいている。」

と、書いています。なにしろ「海外雑報」ですから、いろんな話題が詰まっています。長いのもあれば、短いのもあります。別にお題はついていません。この巴里モオドの話は、長い。これは、1909年2月6日のところに出ています。
鷗外は、しばしば「海外雑報」の中で、巴里モオドに触れています。少なくとも鷗外が当時のオオトクチュウルに興味があったものと思われます。いや、巴里にオオトクチュウルのあることを、明治末期に日本に伝えたのは、鷗外ではなかったでしょうか。

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