モン・パリとモンペ

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone

モン・パリは、「私の巴里」といったほどに意味でしょうね。誰でもはじめて巴里に行くと、「モン・パリ!」と叫びたくなってくるみたいですね。
1951年に巴里に行った高峰秀子も、「モン・パリ!」と声をあげたのかも知れませんが。でも、高峰秀子の場合は単なる物見遊山ではなかったらしい。なんだか周りの空気がモヤモヤしているので、そのほとぼりを冷ます意味もあったようです。第一、六カ月の滞在ですから、むしろ「遊学」というべきでしょうね。

「バスはパリに入る。凱旋門がみえ、エッフェル塔がみえ、ああパリに私はいるのだとつくづく思う。」

高峰秀子著『巴里ひとり歩き』には、そのように書いています。まさに、「モン・パリ!」の心境だったのではないでしょうか。
高峰秀子はパリでは、下宿。マダム・テヴナンの家に。この下宿からは、中原淳一の住んでたアパルトマンが近くにあった、とも書いています。また、藤田嗣治にも会って可愛がられています。高峰秀子は藤田嗣治のことを、「ヘチャプリ」と呼んだという。もっとも「ヘチャプリ」は、藤田自身が、そう呼びなさいと言ったらしいのですが。
ところで、戦争中の高峰秀子はどんな風だったのか。

「戦争が終わって、明るい電灯の下でモンペを脱ぎ捨て、スカートをはいた時の感動は忘れられない。」

1956年『漫画読本』11月号に、『モンペよさようなら』と題して、そのように書いています。
しかし、しかし。それからざっと八十年経ってみれば。新しいファッションになるかも知れませんよ。

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone