ステッキもまた、おしゃれの小道具のひとつですよね。ステッキは、れっきとした和製英語。英語では、「ケイン」 c an e。「ウォーキング・スティック」とも。このウォーキング・スティック訛って、ステッキとなったのでしょう。
ステッキの蒐集家だったお方に、中村武志がいます。ある時、中村武志にお目にかかった折には、銀の握りのエルメスのステッキを携えていたものです。「ああ、エルメスのステッキがお好きなんだなあ」と、単純に思った。ところが。
「国内でも外国でも、変わったステッキを見つけると、かならず買うので、現在十数本になった。」
中村武志の随筆、『ステッキの石づきは指先』にはそんなふうに書いています。
中村武志の師匠が、内田百閒。中村武志は、昭和二十六年に、『埋草随筆』を出版。その時、内田百閒に「序文」を書いて頂いた。その骨子。
「面白イ物ヲ書カウトスルノハ、自分ノ目ジルシヲ見馴レタ私カラ云ヘバ邪道デアル。」
中村武志著『ただ一度の訓示』には、そのように出ています。
ステッキを好んだお方に、森 鷗外が。
「団子坂の上にある大きな邸の塀の傍にステッキを杖にして、しゃがんで此方を見ている父を発見した。」
小堀杏奴が、昭和五年に書いた『晩年の父』に、そのようにあります。
家を出ようとして、お母さんに叱られる。「いつまでもパッパと一緒に行かないで、いいでしょう」と。で、鷗外は杏奴よりも先に家を出る。でも、パッパは坂の途中で、杏奴のことを、待ってくれていたわけですね。
森 鷗外の詩に、『釦鈕』があります。
はたとせの 身のうきしづみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ
………………………。
これはたぶん、スリーヴ・ボタンのことかと思われます。
今、スリーヴ・ボタンが、四個が多い。でも、むかしは二個が主流だった。今から170年ほど前のことですが。つまりざっと二百年かけて、二つが三つに、三つが四つになったものなのです。
なにか袖ボタンの美しい上着を着て、ステッキを持つといたしましょうか。