ダヌンツィオとタブ・カラー

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone

ダヌンツィオは、イタリアの詩人ですよね。ダヌンツィオは十九世紀末の偉大な詩人です。が、そのわりにはあまり日本では愛唱されることがありません。
ガブリエーレ・ダヌンツィオは半ば忘れられた詩人なのでしょうか。

白波の、潮騒のおきつ貝なす
青緑しげれる溪を

ダヌンツィオの『篠懸』という詩を、上田 敏はこんなふうに訳しています。
ダヌンツィオの詩はともかく、「ダンディ史上」においても、忘れることのできない人物です。もし、イタリアと限った場合、ダヌンツィオの洒落者ぶりは、間違いなく三本の指に入るでしょう。少なくともダヌンツィオは歴史的洒落者でありました。二十世紀はじめの巴里で、ダヌンツィオを愛読したひとりに、モディリアーニがいます。
アメデオ・モディリアーニは、1920年1月25日。三十五歳で世を去っています。その折の最期の言葉は。

カーラ・イタリア!

「愛しのイタリア!」であったという。モディナーアーニははじめ彫刻家で、やがて絵画に移り、「頸の長い女」を描いた。でも、その心の内はイタリア人で、巴里では異邦人として生きたのでしょう。
今、モディリアーニの傑作をレントゲン写真にすると、下絵の様子が浮かびあがって。その下絵もまた「頸が長い」。つまり、モディリアーニの場合、描いているうちに頸が長くなったのではなく、最初からそのつもりで、絵筆を執っていたものと思われます。
巴里で、モディリアーニの際立った才能を発見したのは、ギョーム。画商のポオル・ギョーム。ギョームは画商になる前、自動車修理工だったという。
モディリアーニを発見したギョームを発見したのが、詩人のアポリネール。ある日、偶然、ギョームのガレージを訪ねたアポリネールは壁に掛けられてアフリカの絵画に注目。アポリネールはギョームは言った。
「きみは、画商になるべきだ!」。
それで、ギョームは画商に。1914年のことであります。ギョーム、二十三歳の時。
1915年にモディリアーニが描いた絵に、『新しき水先案内人 ポール・ギョームの肖像』があります。というよりも、これはとても有名な作品です。
この傑作のなかでのギョームはダーク・スーツに、マロン色のネクタイを結んでいます。そしてそのシャツの襟は、タブ・カラーに。タブ・カラーは、珍しくもありません。が、ギョームのタブ・カラーは、まっすぐに直立しているのです。これこそ正しいタブ・カラー。今も、パリで、何軒かの少ないシャツ屋がこの「直立タブ」を伝承しています。
なにかタブ・カラーのシャツを着て、ダヌンツィオの初版本を探しに行きたいものです。

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone