オオギュストとオブリック

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オオギュストは、人の名前ですよね。たとえば、オオギュスト・エスコフィエだとか。
オオギュスト・エスコフィエは、伝説の料理人であります。1894年5月1日。倫敦、コヴェントガーデンでの『ローエングリーン』におけるメルバの名演に感激したエスコフィエが創ったのが、「ピーチ・メルバ」だったと、伝えられています。
彫刻のほうでは、オオギュスト・ロダンでしょうか。オオギュスト・ロダンを信奉したひとりに、詩人のリルケがいます。

「あなたのデッサンが一枚いただけるとのこと、一瞬たりとも忘れたことはありませんでした。こうした喜びなどというものは、そう滅多にあるものではございません。」

1909年12月28日。リルケは、ロダンに宛てて、そのような内容の手紙を送っています。
このリルケの手紙は、ロダンからのクリスマスの贈物への、返礼。この年のクリスマスに、ロダンは『カンボジアの踊り子』の素描を、献辞つきで贈っているのです。
オオギュスト・ロダンが愛した人に、「花子」が。もちろん、日本人女性。ロダンは、「プティット・アナコ」と呼んだものです。事実、ロダンは「アナコ」をモデルに多くの作品をも遺しています。
プティット・アナコの本名は、太田ひさ。「花子」はヨオロッパでの藝名だったのです。大正十年に、帰国。帰国後は、妹の岐阜の家に身を寄せた。
その岐阜の「花子」を訪ねたのが、高村光太郎。ロダンを崇拝するがゆえの旅であったのでしょう。高村光太郎は「花子」に会って、詳しく話を訊いています。それは昭和三年に高村光太郎が発表した『ロダン』に、出ています。

「明治あれは三十九年でしたか、マルセイユの博覧會の興行の時ですね。その時、初めてロダンさんにお目にかかつたのです。」

ロダンは花子に、連絡のメモを渡す。でも、花子はロダンが何者であるか、知らない。当然、連絡もせずに。と、その後の巴里での公演の時。楽屋にロダンの迎えが来て。それで、ロダンとの親交がはじまったという。
高村光太郎が花子を訪ねたのは、昭和二年の二月。岐阜の妓楼「新駒」だったとのことです。
高村光太郎著『ロダン』には、晩年のロダンの写真が掲げられています。そのロダンの写真を眺めると、片前四つボタンのカントリー・ジャケットを、アトリエで着ているのですが。
カントリー・ジャケットの胸ポケットはフラップ付きで、大きく傾いて、ほぼ四十五度くらい。「ポッシェ・オブリック」でしょうか。右手で左胸のポケットに出し入れするには、ある程度傾斜があったほうが、扱いやすい。
もちろん機能ばかりではありませんが、カントリー・ジャケットには、時に「ポッシェ・オブリック」があることも、覚えておきたいものですね。

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