最愛の紳士帽
トリルビーはソフト・ハットのことである。日本で、「中折れ帽」というのに近い。つまり、ソフト・ハットの別名なのだ。
トリルビーのことをフランスでは、「フェドーラ」 fedora という。アメリカでも同じように、「フェドーラ」となる。ごく簡単にいって、「トリルビー」がイギリス的であるのに対して、「フェドーラ」はアメリカ的表現なのだ。
もっともイギリスで「フェドーラ」を絶対に使わないでもない。アメリカに「トリルビー」が皆無というのでもないのだが。「トリルビー」も、「フェドーラ」も、ソフト・ハットの愛称だと考えたほうが、もっとも理解がはやい。
トリルビーはもともと小説の題名からきたものである。1894年『ハーパーズ・マガジン』に発表された物語。書いたのは、ジョージ・デュモーリエ。というよりも、デュモーリエの代表作。
デュモーリエは、フランス系のイギリス人。本来は、風刺画家。ジョージ・デュモーリエの孫が、ダフネ・デュモーリエ。『レベッカ』の著者である。
小説『トリルビー』の時代背景は、1850年代。場所は、パリ。女主人公の名前が、トリルビー・オファレル。アイルランド系フランス人という設定。トリルビー・オファレルは美しい女性で、画家のモデルなどもしている。単なる美人ではなくて、とても脚が美しい。
この「トリルビー」が単行本となったのが、1895年。たちまち、ベストセラー。さらには演劇にもなって、大好評。そしてトリルビー・オファレルが舞台の上で、男物のソフト・ハットを被った。これが洒落ているというので、話題になったのである。
「最新流行の靴、それはトリルビー・シューズ」。1895年度版『モンゴメリー・ワード』のカタログにも、そう出ている。トリルビーが履いている靴が流行ったのだろう。
「私はこれまでソフト・ハットを愛用してきたのだが、これからは新たに「トリルビー」と呼ばなくてはならない。」
1895年『ブラッドフォード・デイリー・アルゴス』紙11月12日号の記事の一節。1895年頃のソフト・ハットは、代表的なスポーツ・ハットであった。それというのも、正装にはトップ・ハットやボウラー、ホンブルグなどを被ったからだ。
ところが1900年代に入ると、ソフト・ハットが紳士のためのタウン・ハットだと考えられるようになる。そのニックネームとして、「トリルビー」が採用されたのである。
一方、フェドーラもヴィクトリアン・サルドーの戯曲に因んでいる。フェドーラもまた、女主人公の名前。フェドーラがステージで被った男物のソフト帽に由来する。
「彼は鮮やかに、トリルビー・ハットをかぶった若い紳士に変身していた。」
1915年に発表された『ロンドンを買った男』の一文。著者は、イギリスの小説家、エドガー・ウォーレス。1915年頃のトリルビーは、「若い紳士」にもふさわしいものであったのだろう。
「二十世紀以降、トリルビーはもっとも一般的なヘッド・ウェアとなった。それはセンター・クリース、スナップ・ブリムのソフト・ハットのことである。」
ハーディ・エイミス著『ファッションのABC』( 1964年刊 ) には、そのように説明されている。今、再び、ソフト・ハットが注目されている。ソフト帽の愛称として、「トリルビー」はもっと使われて良い言葉ではないだろうか。