湯本は、地名にありますよね。湯本というくらいですから、温泉に関係があるんでしょうね。
日本のここそこに、「湯本」はあるようです。でも、東京から近いというなら、箱根湯本でしょうか。
東京から湯本は、近い。たしかにその通りなのですが。それは今は交通の便がよくなっているから。
🎶 箱根の山は 天下の嶮 函谷関もものならず………………。
『箱根の山』にも、そのように歌われているように。江戸時代までは、難所であったでしょう。
ただ、温泉の歴史は古いらしい。なんでも天平年間に遡るんだとか。西暦の730年代であります。
天平年間に、関東で疫病が流行ったとき。「浄定」という名の僧侶がこの地にあらわれて、
「十一面観音」を安置して、祈りを捧げたところ、湯が湧き出して。この湯に浸かることで、疫病が癒ったとの伝説があります。
明治六年に、箱根温泉に滞在していたのが、福澤諭吉。この時、諭吉が、「箱根には鉄道を通すべき」と言ったんだそうです。
福澤諭吉の言葉に動かされて、鉄道の準備を。紆余曲折の末、明治二十一年に、鉄道が湯本まで通るように。ただし、それは馬に挽かせる鉄道だったのですが。
当時は、「国府津」駅があって、ここから小田原を経て、湯本まで、馬が挽く鉄道で。
湯本が出てくる小説に、『青年』があります。森 鷗外が、明治四十三年に発表した物語。
『スバル』三月号から翌年の八月号まで連載。この中に。
「箱根湯本の柏屋と云ふ温泉宿の小座舗に、純一が獨り顔を蹙めて据わつてゐる。」
「小泉純一」は、物語の主人公。時は、十二月三十一日。東京での暮しが何もかにも嫌になって、発作的に湯本に。森 鷗外はたぶんそんな時には湯本あたりに行くのが良いと、考えていたのでしょうね。
森 鷗外の『青年』には、こんな描写も出てきます。
「着物は新大島、羽織はそれより少し粗い飛白である。袴の下に巻いてゐた、藤紫に赤や萌葱で模様の出してある、友禪縮緬の袴下の帶は、純一には見えなかつた。」
これは通りで擦れ違った、女學生の姿。「友禪縮緬」は、縮緬に友禅模様をあしらった生地だったものと思われます。
「友禅」は今も昔もよく耳にする言葉であります。一枚の布として考えるなら、とりあえず、「美の極致」でありましょう。「絵を着る着物」そうも言えるでしょう。日本美術の
最高峰のひとつではないでしょうか。
「………御所ぢらし、千筋、山づくし、曙じま、友禪が萩のすそがき……………………。」
井原西鶴が、貞享四年に発表した『男色大鑑』にも、そのように出ています。藤田皆之烝の
装いとして。
友禅が、宮崎友禅斎に関係しているのは、申すまでもありません。ただし、宮崎友禅斎という人物についてはよく分かってはいません。
京都、知恩院前の扇面師だったのではないかと、想像されているくらいです。ただ、
宮崎友禅斎が優れた絵師だったのは間違いないでしょう。
つまり、もともとの「友禅」は、扇絵だったのです。扇絵からやがて着物の柄へと移ったに違いありません。
たしかに友禅ほど美しい生地はほかには探せないかも知れません。が、友禅の完成には、緻密な手仕事の連続でもあります。
今は、元禄期の「本友禅」は絶えているのです。どなたかもう一度「本友禅」を再生して頂けませんでしょうか。
友禅のジレ など着てみたいものであります。