ゴッホは、もちろんヴィンセントのことですよね。ヴィンセント・ファン・ゴッホ。
1853年3月30日に、オランダに生まれています。やがてベルギー国境に近い、ズンデルト村において。
ヴィンセント・ファン・ゴッホは、実は二回産まれているのです。お父さんの名前は、
テオドルス。村の牧師でありました。お母さんはアンナ・コルネリア。二人は、1851年に、結婚。
そして、1852年3月30日に、ヴィンセントを出産。ただし死産でありました。
ところが。まったくの偶然から、翌年の1853年3月30日に、男子出産。同じ日に。
それで、ふたたび「ヴィンセント」と命名したのであります。
「ヴィンセントは二度産まれた」。これは必ずしも誤りではないでしょう。
ヴィンセントの弟が、テオであるのはよく知られている事実。テオは、ヴィンセントの四つ年下。1857年5月1日、午前三時三十分に、誕生。次男でありました。
テオ・ファン・ゴッホが、画商になったのは、1878年のこと。ただし「グーピル商会」
巴里支店の社員として。
1881年には、「グーピル商会」巴里支店長になっています。また、1888年には、
モネと契約もしているのですが。
「もし、きみがぼくのために何かしてくれようというのなら、今までどおり、芸術家や友人たちとの交友関係をつくってくれればいい。それは、ぼくだけでは絶対できないことだ。」
1888年10月27日付の、テオがヴィンセントに宛てた手紙の一節に、そのように出ています。
画商としてのテオは、ヴィンセント・ファン・ゴッホの弟であることで、その時代の画家との関係が有利だったものと思われます。
1886年、テオはマネの絵を100フランで購入し、200フランで転売しているのです。ここにも何かヴィンセントの助言があってのかも知れませんが。
テオがヴィンセントを援助したのは、ほんとう。兄弟仲がよかったのも、ほんとう。テオの子に「ヴィンセント」と命名するくらいですからね。
でも、テオもまたどこかでヴィンセントの恩恵を受けていたのも、事実でしょう。
ところで。ヴィンセント・ファン・ゴッホはある程度、織物の基礎知識を持っていたのではないでしょうか。
1884年に、ゴッホは『紡ぐ女』の絵を描いています。同じ年の1月には『織る人』を。1884年5月にも、『織る人』を。当時の手機織機の様子。絵を描いたからには取材もしているわけで、その時代の織機についてゴッホは、かなりの知識を持っていたのでは、と思えてくるのです。
ヴィンセント・ファン・ゴッホのふだん着には、コオデュロイの服があったはずです。十九世紀までのコオデュロイは労働者にふさわしい生地で、絵師もまた労働者の気持があったので。
コオデュロイは、1776年のフランスで特許を得ていた、との説があります。
コオデュロイのもとになったのは「ファスティアン』で、ファスティアンを改良して、畝を配してのが、今のコオデュロイだったというのです。
絵師、ヴィンセントが絵筆を持つ時に着ていたような上着をどなたか仕立てて頂けませんでしょうか。「ゴッホ」と名づけて愛用いたしますから。