エトランジェと襟飾

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エトランジェは、「異邦人」のことですよね。
étranger と書いて、「エトランジェ」と訓みます。もし仮に私がフランスに行くと、エトランジェになるわけです。逆にフランス人が日本に来ますと、やはりエトランジェになるわけであります。

🎶 春を持たない エトランゼ

『夜霧のブルース』のなかに、そんな歌詞が出てきます。昭和二十二年に、ディック・ミネが歌って、拍手喝采となった歌ですよね。歌の背景は、戦前の上海に置かれています。

🎶 青い夜霧の……………。

と、はじまるんですが。どうしてこれが『夜霧のブルース』かと言いますと。当時は歌の題に「ブルース」がつくと流行る。そんな伝説があったのですね。
よく知られているところでは、『別れのブルース』。昭和十二年に、淡谷のり子が歌ってヒットした歌であります。
それがために淡谷のり子には、「ブルースの女王」の名前があったほどなのです。その歌が実際に「ブルース」であるか否かはさておき、「…………のブルース」と命名するのが、流行でありました。
一方、その「ブルースの流行」より前に、エトランジェの言葉が使われています。
島崎藤村が、大正九年に発表した紀行文に、『エトランゼエ』があるのです。
島崎藤村の『エトランゼエ』は、大正九年「朝日新聞」九月二十五日から、大正十年一月十五日まで連載された物語なのです。
大正二年五月、島崎藤村がフランスに赴いたのはよく知られている通りです。帰国は、
大正五年の七月でありました。島崎藤村は約三年の間、フランスで暮したわけですが、その間の消息を知る上では、『エトランゼエ』は貴重な資料とも言えるでしょう。
神戸港を、「エルネスト・シモン号」で発った島崎藤村は、三十七日目に、フランスのマルセイユに到着しています。
島崎藤村は、「エルネスト・シモン号」の船中で、ひとりのフランス人と親しくなっています。「カステル君」。島崎藤村は、『エトランゼエ』の中に、「カステル君」と書いています。おそらくは彼の本名だったのでしょう。
マルセイユに着いた島崎藤村は、しばし「カステル君」と行動を共にしています。
たとえば、マルセイユのホテルまで馬車で一緒に行き。カフェでのランチも一緒に愉んでいるのです。そのことは細かく『エトランゼエ』に、述べられているのですが。
このマルセイユで、「カステル君」が洋服を買う場面が出てきます。マルセイユの百貨店に二人で行って。
島崎藤村は、「背廣」と書き、「出来」と書いています。たぶん「既製服」のことかと思われます。
「カステル君」はスーツを買った後に、クラヴァットをも求めている。そのクラヴァットはどうも結び切りのものであったらしい。というのも、島崎藤村はカステル君に、こう問うからです。

「何故もつと柔らかい襟飾を探して自分で結ばないのか…………………………。」

これに対するカステル君の返答も出ています。

「そりや、君、歐羅巴人だつて、自分で襟飾の結べないものは幾らもありますよ。」

ここから想像できることが二つあります。ひとつは当時のクラヴァットは凝った結び方が主流であったこと。フランス人よりも日本人のほうが手先が器用かも知れない、ということ。
大正二年は、西暦の1913年で。その頃はまだ華麗なるクラヴァットが遺っていたのでしょう。
どなたか1910年代のクラヴァットを再現して頂けませんでしょうか。

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