神保町は、東京、神田にある地名ですよね。今も昔も、古書街という印象があります。
大都会の真ん中に、あれほど多くの古本屋が密集している例も珍しいのではないでしょうか。
神保町の隣に小川町があります。小川町と書いて、「おがわまち」。神保町のほうは、
「じんぼちょう」と訓みます。「まち」と「ちょう」。なにが、どう違うのでしょうか。
神保町が出てくる小説に、『それから』があります。夏目漱石が、明治四十二年に発表した長篇。
『それから』はもともと新聞小説。「朝日新聞」に連載。明治四十二年六月二十七日から、
十月十四日まで
当時はもとより、今なお読み継がれている名作であります。
「代助のほうから神保町の宿を訪ねたことが二へんあるが、一度は留守だつた。」
長井代助は物語の主人公。平岡常次郎の宿が神保町にあったので。平岡常次郎は、長井代助の親友。そして平岡常次郎の妻が、三千代という設定になっています。
では、夏目漱石は『それから』を、どんなふうに書いたのか。
「それからの第百回を半分書いてから又書き直す。「それから」を書き直したのは是で二回目也。」
明治四十二年八月九日、月曜日の『日記』には、そのように書いています。
その前の日には。
「それからを一回しか書かず。」
八月八日の『日記』には、ただその一行だけを書いているのですが。
『それから』は連載小説ですから、毎日書いて編集者に渡すのでしょう。編集者としては何回分かをまとめて頂きたいところ。
でも、漱石としても苦吟に苦吟を重ねての原稿だったものと思われます。
漱石は、『日記』とは別に、『断片』をも書いているのですが。この『断片』は今、
『漱石全集』に収められています。ここには『それから』のための、膨大なメモが遺されているのです。たとえば。
「時計ノ音虫ノ音ニ變ル夢、夢ノ試験……………………。」
こんなふうに。
『それから』は、新聞連載中、大きな反響があったらしい。その一例なのですが。
『「それから」の主人公は小生だとの御斷定拝承所があの代助なるものが……………………。」
明治四十二年七月二十六日、月曜日の手紙に、そのような一節があります。
おそらく友人からの手紙に、「代助すなわち漱石」とあったので、それを否定する内容になっています。
まあ、小説家もなかなかご苦労が多いのでしょうね。
「………もう夏の洋服を着てゐた。襟も白襯衣も新らしい上に、流行の編襟飾を掛けて……………………。」
これは代助のところにやって来た、平岡の着こなし。
ここでの「編襟飾」は、今のニット・タイ」でしょう。明治四十年頃に、すでにニット・タイの流行があったものと思われます。
流行といえば。
「其晩は水を打つ勇氣も失せて、ぼんやり、白い網襯衣を着た門野の姿を眺めてゐた。」
『それから』の季節は、夏で。「門野」は代助のところの下男という設定になっています。
「網襯衣」は、ネット状のシャツでしょうか。明治四十年頃に、「ネット・シャツ」があったのでしょうね。
「強い日は大きな空を透き通す程燒いて……………………。」
やがて『それから』がおわるあたりに、そんな描写が出てきます。『それから』は代助がある決心をするところで終っています。だからこその、『それから』なんでしょう。
「………透き通す程………」
そういえば、「シースルー」s e e thr o ugh のおしゃれ語がありましたね。
なにかの服から肌が透けて見えるのは、下品。ふつうなら下品になるところを、あべこべに
「上品」にしてしまう自信のある人のために、「シースルー」はあるのでしょう。
たとえば、オーガンディーなどははじめから透けることを目的にしたいるわけですからね。
どなたか上品なシースルーのシャツを仕立てて頂けませんでしょうか。