フォーレは、ガブリエル・フォーレのことですよね。もちろん、フランスの作曲家。
ガブリエル・ウルバン・フォーレは、1845年5月12日、スペイン国境に近い、アリエージュのパミエに生まれています。
フォーレは、1854年、巴里の「ニーデルメイエール音楽学校」に。九歳の時でありました。
どうして九歳で、音楽学校なのか。フォーレは四歳の頃から、地元の教会に出入りして、オルガンの音色に魅せられる。で、こっそり自分でもオルガンを弾いていて。
このフォーレの弾くオルガンを聴いたのが、とある盲目の婦人。婦人はぜひフォーレを音楽学校に上げるように父親に進言した結果だったのです。
巴里の音楽学校で教師として出会ったのが、サンサーンス。サンサーンスはフォーレのちょうど十歳年長でありました。これ以降、サンサーンスとフォーレは、先生であり親友でもありという関係を築いたと、伝えられています。
フォーレの音楽を好んだ作家に、プルーストが。『失われた時を求めて』の傑作で知られる、マルセル・プルーストのことです。
「先生、私は先生の音楽を愛好し、賛美し、崇拝するだけではなく、惚れ込んだし、今でも惚れ込んでいるのです。」
1897年頃、プルーストがフォーレに宛てた手紙のなかに、そのように記されています。
1893年4月29日。ソシール伯爵邸で宴があり、この時にプルーストはフォーレに出会っているようですね。
余談ではありますが。かのモンテスキュウではじめて出会ったのも、同じ年のこと。
4月13日。マダム・ルメールのパーティーで。
ロベエル・モンテスキュウが当時、巴里での最高のダンディだったのは、いうまでもないでしょう。
1893年には、プルーストは二十二歳、モンテスキュウは三十八歳でありました。
モンテスキュウは1855年3月19日の生まれで、伯爵の出身であった人物。
プルーストが服装において、モンテスキュウの影響を受けているのは、まず間違いないでしょう。が、そこにはプルーストならではの主義があったのも、事実。だいたいがクラッシック好みだったようですね。1900年代は、やがてソフト・カラアが流行ろうかという時代で。にもかかわらずプルーストはハイ・カラア、ハード・カラアのシャツを好んだという。
また、当時はモオニング・コオトの時代でもあって。プルーストはモオニングに、必ず小格子のパンタロンを合わせたそうです。
靴は、黒いエナメル革のボタンド・ブーツがお好みで、それは巴里の「オールドイングランド」製だったと、伝えられています。
ある時。秘書だったセレストが、プルーストのために、コンビのボタンド・ブーツを買ったところ、たいへん気に入った。それは甲から脚にかけてベージュのキャンバス式のものであったのですが。
「また(A嬢)は、ときどき肌がとっても黒くて柄付メガネを持った婦人とやって来ました。」
プルーストの長篇『失われた時を求めて』には、そんな一節が出てきます。ここでの
「柄付メガネ」は、「ファザマン」face-à-m a in のことかと思われます。
片手で持つための「柄」がついているので、柄付メガネ。
ただし「ファザマン」はやや特殊な表現で、ふつうは「ロルニェット」と呼ばれることが多いようです。また、イギリスでは「プロスペクト・グラス」と。
つまり顔の前に置くのではなく、必要に応じて、手で顔の前に差し伸べる旧式なメガネなのです。
どなたか現代に通用する「ファザマン」を作って頂けませんでしょうか。