紙屋川とかくし

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紙屋川は、京都の町を流れている川ですよね。
紙屋川はまた、天神川とも呼ばれるんだそうですが。天神川の上流が紙屋川で、天神川の下流が、天神川なんだとか。
江戸期までは、それもこれも「紙屋川」の名前だったという。どうして「紙屋川」なのか。
もちろん「かみやがわ」と訓むのですが。
その昔、「紙屋院」があって。この紙屋院の近くを流れている川なので、「紙屋川」と呼ばれるようになったそうですね。
「紙屋院」は、大同元年のはじまりというから、古い。大同元年は、西暦の806年のことですから。
「紙屋院」は宮廷に連なる紙漉所だったのです。今の言葉で申しますと、製紙場。古代には多く紙は輸入品でもあったのでしょう。そうではなくて、国でも紙を作ろうではないかというので、「紙屋院」がはじまったという。

「………唐の紙はもろくて、朝夕の御手馴らしにもいかゞとて、紙屋の人を召して、ことに仰せ言給て、心ことにきよらに漉かせ給へるに……………………。」

『源氏物語』にも、そのような一節が出てきます。
これは、光源氏が、「阿弥陀経」の写経のために紙を註文する場面。ここに、「紙屋」とあるのが、「紙屋院」のことなのです。
つまり写経のために源氏は、特別の紙を誂えさせたものと思われます。そしてまた、「唐の紙」が、むかしの中国の紙、ひいては今の「唐紙」にも通じる言葉であるのは、いうまでもないでしょう。
この「紙屋院」とも関係しているのが、「唐長」であります。「唐長」は今も京都に伝わる紙の名店。
唐紙屋長右衛門がはじめたので、「唐長」の名前があります。唐紙屋長右衛門は、本名を、
千田長右衛門といって、もともとは下級武士、御所の警護役。今なら、皇宮警察でしょうか。
千田長右衛門は空いた時間に、紙師宗二の手伝いを。そこで、紙漉の技を覚えたと、伝えられています。
初代の唐紙屋長右衛門は、1687年11月に、世を去ったとのこと。以来、「唐紙屋長右衛門」は屋号ともなって、今に至っているわけです。

日本の家は木と紙でできている。

よく言われることですが。当たらずといえど遠からず。
今日も木造建築は少なくありません。一歩中に入りますと。障子があって、襖があります。
襖は木の枠に唐紙を張ったものです。「木と紙の家」と申されても返す言葉がありません。

「そこを通り抜けて、唐紙を開けると、居間である。」

森 鷗外が、明治四十三年に発表した『あそび』に、そのように出ています。これは、「木村」の自宅の様子として。
「唐紙」はもともと中国から舶来の紙だったのでしょう。が、今でも「唐紙」だけで、意味が通じます。襖のことですね。
同じく明治四十三年に、森 鷗外が書いた短篇に、『杯』が。この中に。

「第八の娘は裳のかくしから杯を出した。」

ここでの「裳」は、今のスカート。「かくし」は、ポケットのことであります。
維新から明治にかけて、「ポケット」の言葉が定着する以前は、「かくし」と言ったものです。

「柳之助は外套の衣兜からピンヘッドを取出したが、 まづ例の中絵を引抽いて……………………。」

明治二十九年に、尾崎紅葉が発表した『多情多恨』の一節。尾崎紅葉は、「衣兜」と書いて、「カクシ」のルビを振っています。
もともとは、「隠し」の意味だったのでしょうが。ありとあらゆる宛字が用いられているのも、事実です。
つまり、「かくし」は、ポケット以前のポケットのことなのであります。
たとえば、トラウザーズの脇ポケットは、完全に滑らかであるのが、最上とされます。その意味ではまさに「かくし」なのです。
どなたか脇ポケットが一体化しているトラウザーズを仕立てて頂けませんでしょうか。

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