風呂は、湯のことですよね。「湯船」というではありませんか。
銭湯というではありませんか。江戸の頃までは、銭湯のことを、「湯屋」と言ったんだそうですね。
🎶 朝寝 朝酒 朝湯が大好きで…………………。。
そんな歌がありますが。江戸期の朝湯は珍しいことではなかったらしい。たしかに朝湯はさっぱりするものであります。
朝湯が大好きだったお方に、魯山人がいます。北大路魯山人。畸人のお一人でありましょう。
もっとも魯山人の場合。ご自分で朝湯が大好きだったというよりも、人を朝湯に入らせるのが、お好きだった。
魯山人は晩年に至るまで美食を人に食べさせるのが、好きで。文人墨客を北鎌倉の自宅に招く。それも、早朝に。朝飯を食わせるという趣向。
北鎌倉、山崎、「星岡窯」に行くと。魯山人がいて。
「湯にどうぞ」
朝湯の用意がしてあって。魯山人自らが築いた風呂釜で。内側に、織部陶板を張ってあったそうです。
朝湯から出ると、麦酒が冷やしてあって。そこから山海の珍味がはじまるわけですね。これでは料理は美味くないはずがありません。
「粗末な材料なら粗末な材料を生かすやうに 良い材料ならば良い材料を殺さぬやうにして 良い料理を作ることハ 人生を明るくします。」
魯山人は、『私の料理観』の中で、そんなふうに書いています。
魯山人は「自然」を愛して。北鎌倉の自宅も、可能な限り「自然」が生きるように設計されていたという。
戦後間もなく、魯山人の器に惚れたのが、イサム・ノグチ。に来て、さる料亭で食事。その時に出された器が、魯山人。
イサム・ノグチはすぐに、北鎌倉に魯山人を。イサム・ノグチは山口淑子と結婚したばかり。たまたま家の話になって。イサム・ノグチが、
「今、新居を探していて………」というと。
「離れが空いているから、住みたまえ!」
そのようなわけで、イサム・ノグチ、山口淑子の新婚家庭は、魯山人邸の隣だったのです。
夕食の時間になると、魯山人が木魚を叩いて知らせてくれたそうですが。
えーと。風呂の話でしたね。
今、風呂には裸で入ります。が、江戸初期までは、褌を着けて入った。これを、「風呂褌」と言ったものです。
一方、女は、「湯巻」。湯巻を上品に言った言葉が、「湯文字」。いずれにしても、男も女も裸での湯は、江戸中期から一般化したものであります。
褌と書いて、「ふんどし」と訓みます。これは、「踏み通し」の訛ったものではないか、との説があります。
より古い名称としては、「たふさぎ」。一説に、「股ふさぎ」から出ているのでしょう、とも。
我が背子が 犢鼻にする つぶれ石の 吉野の山に 氷魚懸れる
『萬葉集』にも、そのように詠まれています。「犢鼻」と書いて、「たふさぎ」と訓んだのですね。
ただし、萬葉集の時代には、まだ紐状の下着だったそうですが。
「今世、ふんどし、貴人は白羽二重、士民は白晒木綿を本とす。」
喜多川守貞著『近世風俗志』には、そのように出ています。
畏れ多いことながら。明治天皇は湯をおつかいになるのに、白羽二重のお褌であらせられたという。
それは一度の湯に、一度きりのお褌であったそうですが。
どなたか現代版の褌を考えて頂けませんでしょうか。