ダンテは、イタリア中世の詩人ですよね。「イタリア最高の詩人」は、むしろ控え目な形容となるでしょう。
「千年に一度の詩人」もまた、同じことであります。
ダンテ・アリギエリは、1265年に、フィレンツェに生まれて。それが5月のことであったのか、6月であったのかは、定かではありません。まあ、それくらい昔の人物ということなのでしょう。
お父さんのアリギエーロは金融業だったと伝えられています。ダンテは子供の頃から、詩作に耽ったようです。
でも、その一方でダンテが目指したのは、政治家。事実、ダンテは1295年頃、フィレンツェの「頭領」になっています。当時のフィレンツェは独立国で、イタリア統一はるか以前のことであります。
ところが。1302年3月10日。ダンテはフィレンツェから、追放。欠席裁判の結果、死刑の判決が。これは政変によるものでありました。ダンテがロオマに出張中のことだったのですが。
つまりフィレンツェに帰れば死刑が待っているのですから、帰るに帰れない。そこでイタリア全土を転々とすることに。イタリアにも居られなくて、フランスの巴里に難を避けたこともあったらしい。
そのような1307年頃。『神曲』の案が浮かんだのだそうです。もし、1302年に、フィレンツェでクーデターがなかったなら、歴史的名著『神曲』も生まれなかったのかも知れませんね。
フィレンツェの、ルネッサンス期の絵師といえば、ボッティチェッリでしょうか。
ボッティチェッリが1480年代に描いた素描に、『神曲』があります。ダンテは1320年に世を去っていますから、ざっと160年後のことでしょうか。
ボッティチェッリは、おそらくメディチ家の依頼で、『神曲』の挿絵を描いたものと思われます。
ロレンツオ・メディチは、『神曲』の写本を作ろうと考えていたらしい。そこで、写本に添えるための絵が必要で、当時第一人者であった、ボッティチェッリに白羽の矢が立てられたのでありましょう。
同じ頃。ボッティチェッリは、『ダンテの肖像』をも描いているのです。この肖像画の中でのダンテは、真紅の衣裳に、オリイヴの葉をあしらったフードをかぶっています。あるいは
「桂冠詩人」の暗示でしょうか。
1495年に描かれたボッティチェッリの肖像画だけからも、ダンテの偉大さが伝わってくるのではないでしょうか。
………なぜならマントの掛け金を留めるところから下まで
三十パルメもあるように私には見えたからだ。
ダンテの『神曲』の一節に、そのように出ています。このマントの留め金はゴールドだったのでしょうか。
ダンテの詩が出てくる小説に、『つわものども』があります。1952年に、英国の作家、
イーヴリン・ウォーが発表した物語。」
「………旅団長の様子はさながら「グリフォンの眼を備えたるカエサル」であった。
時代背景は第二次世界大戦中になっているのですが。
また、『つわものども』には、こんな描写も出てきます。
「…………訓練隊の教練は二等兵用のダンガリーの上下で行われたで……………………。」
ダンガリー d ung ar e e は、デニムに似た、綾織綿布。ふつう、縦に晒糸、横に紺糸を配して織られる生地。デニムは縦に色糸ですから、そこに違いがあります。
「もと、水夫の作業服に用いられたコットン・デニム。」
1960年にアメリカで刊行された『布地の百科事典』には、そのように説明されています。これが三行による全文。もちろん「ダンガリー」の解説文。アメリカの専門書はしばしば、「ダンガリーとデニムは同じ」との見解を示すことがあるようです。
一方、日本での「ダンガリー」は、デニムより軽い生地を指すことがあります。でも、ほんとうは厚いダンガリーもあれば、薄いダンガリーもあります。ちょうど重いデニムもあれば、軽いデニムもあるように。14オンスのデニムでジーンズが作られるのは、ご存じの通りでしょう。
どなたか絹のダンガリーでスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。