寒月とカラア

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寒月は、人の名前にもありますよね。寒い月と書いて、「寒月」。なんだか俳号のようでもあります。
たとえば、夏目漱石の『吾輩は猫である』にも、「寒月」が出てきますよね。

「それから約七分位すると注文通り寒月君が来る。今日は晩に演説をするというので例になく立派なフロックを着て、洗濯し立てのカラアを聳やかして、男振りを二割方上げて………………」。

なるほど。夏目漱石は立派なカラアを付けると、「二割方」男前があがると、考えていたことが分かります。まったくもって、その通りでありましょう。
夏目漱石の『吾輩は猫である』の「寒月君」が、寺田寅彦であるのは、ほぼ常識となっています。
寺田寅彦は、明治二十九年に。熊本の「第五高等學校」の生徒として、夏目漱石と出会っています。寺田寅彦は、その頃の様子を。

「ある日先生の自宅で当時高等学校生徒であった自分と先生と二人だけで戯れに十分十句というものを試みたことがあった。」

昭和九年『東炎』一月号に、寺田寅彦はそのように書いています。
ここに「先生」とあるのが、夏目漱石であるのは、いうまでもないでしょう。
要するに十分間で十の俳句を作る、お遊びのようなものであったのでしょう。ひとつの例として。

つまづくや
富士を向こうに
蕎麦の花

漱石は戯れにそんな一句を詠んだそうですね。
ここでもう一度、『吾輩は猫である』に戻りましょう。明治三十九年の名作の中に、こんな一節があります。

「その上白シャツと白襟が離れ離れになって、俯くと間から咽喉仏が見える。」

「その上」とは、某の着ているフロック・コートがまったく身体に合っていないと指摘した上で。
シャツのカラアが頸に合っていないと、述べているのです。
明治三十九年は、西暦の1906年で、今からざっと二百年ほど前のこと。
まさか今の時代にカラアが頸に合っていない人はいないでしょうが。
過不足なく頸に合ったカラアのシャツで、寺田寅彦の初版本を探しに行きたいものですね。

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