鈴木篤右衞門は、人の名前ですよね。
鈴木篤右衞門と書いてもちろん、「すずき・とくえもん」と訓むわけです。
鈴木篤右衞門は、歴史の遺るテイラーであります。明治のはじめ、西洋服の仕立屋としても、有名でありました。
明治のはじめにも、名だたる西洋服店が多くあってわけですが。鈴木篤右衞門が特別だったのは、割賦販売の第一号だったことです。「分割払い」。
鈴木篤右衞門の屋号は、「洋服裁縫所」でありました。当時の呉服町七番地にあったという。
洋服裁縫所は、『服制年中請負書』を出しています。これは案内書であり、値段表でもあったのです。
鈴木篤右衞門は、「第一等」から「第六等」までの区分けをしています。これも日本のテイラーにおけるはじめてのことであったでしょう。
「第一等」の値段は、145円。ただし、この中には外套を含めて七着の洋服を作ることができたのです。
明治はじめの145円は大金であります。これを毎月、12円8銭4毛づつ支払うという計算だったのですね。つまり明治はじめの西洋服は、今からは想像もできないほど高価だったことにもなるでしょう。
ほぼ同じ時期の明治のテイラーに、大谷金次郎がいます。大谷金次郎は、豪放磊落な人物だったと伝えられています。かの佐藤与次郎の親友でもありました。
大谷金次郎は、嘉永元年。岐阜は大垣の生まれ。十四歳で横濱に修業に出ています。佐藤与次郎とは、当時の横濱で出会ったのでしょう。
明治元年四月、大谷金次郎は独立して「大和屋」を開いています。
明治十年代の話。当時、新橋に「湖月樓」という名高い料亭があって。ある晩、大谷金次郎は友人とここで飲んでいた。ところが隣の部屋がうるさくて。
大谷金次郎はコップに水を入れて、「一杯どうぞ」。もちろん嫌がらせとして。と、その部屋の客人は、伊藤博文だったのです。
伊藤博文はふつうなら怒るところ、「近こう寄れ」。こうして大谷金次郎は伊藤博文の服を仕立てるようになって。さらは伊藤博文の紹介で、宮中にも出入りが許されるようになったのであります。
文久三年。伊藤博文は、英國に。むろん、密航。これを蔭で助けたのが、トオマス・グラバーだったとの説があります。
文久三年は、西暦の1863年。伊藤博文は断髪して、髭まで生やしていて。しばらくは日本に帰らないつもり。
この密航の折の伊藤博文の装いはたまたまスリーピース・スーツだったと伝えられています。
もしかすれば日本人ではじめてスリーピース・スーツを着たのは、伊藤博文だったのでしょうか。
どなたか1863年のスリーピース・スーツを再現して頂けませんでしょうか。