草月流とソックス

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草月流は、生花の流派のひとつですよね。創始者は、勅使河原蒼風。昭和二年のことなんだそうです。
今も赤坂に「草月会館」があるのは、ご存じ通りでしょう。草月流はどちらかといえば、前衛的な流派だと考えられているようですが。
草月流の師範だった女性に、阿部 鑑がいます。阿部 鑑と書いて、「あべ・かん」と訓みます。
今、にわかに阿部 鑑と言われてもピンとはこないかも知れませんが。阿部 鑑は、作家で、奇才の久生十蘭のお母さんなのです
久生十蘭は、明治三十五年四月六日。函館の元町に生まれています。久生十蘭の本名は、
阿部正雄。阿部正雄の母が阿部 鑑だったわけですね。
明治三十三年、同じく函館に誕生したのが、長谷川海太郎。後の林 不忘であり、牧 逸馬であり、谷 譲次だったのであります。
長谷川海太郎の二歳下が、阿部正雄、つまり久生十蘭だったわけです。久生十蘭が長谷川海太郎を大いに意識していたのも、当然のことかも知れませんね。
たとえば。昭和四年六月に長谷川海太郎がヨオロッパから帰国すると。同じ年の十一月に、
久生十蘭は突然のようにヨオロッパに出かけているのです。

「私は、お世辞ではなく、日本の作家で、「久生十蘭」という作家を天才と確信している者です。批評家たちが、なぜ今日、久生十蘭を高く評価しないのか、非常に腹を立てて居ります。」

作家の柴田錬三郎は、1976年6月10日付のある手紙の中に、そのように書いてあります。
久生十蘭が昭和十四年に発表した『キャラコさん』は、ユウモア小説。代表作のひとつと言って良いでしょう。
昭和十八年。久生十蘭は四十一歳でありましたが、南方、スバラヤに派遣されています。これは海軍の報道班員として。帰国が、昭和十九年の二月。ちょうど一年の南方生活だったわけですね。
久生十蘭はこの一年間に、『従軍日記』を書いています。

「二人でドンジユン街のホフマンという店へ行き、白服(上下)を注文す。背広上下二十二円とは驚くべし。仮縫は十八日とのこと。」

昭和十八年三月十一日、木曜日の『日記』にそのように書いています。

「ついでにスマックの靴下を買う。」

昭和十八年三月十四日、日曜日の『日記』。
「ついでに」とは、同じ店で7円50銭の革製リュックサックを買っているから。
この靴下は、細番手のウール・ソックスではなかったでしょうか。
どなたか細いウールのソックスを作って頂けませんでしょうか。

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