珈琲は美味しい飲物ですよね。珈琲の味もさることながら。珈琲の薫りが脳細胞に佳い影響を与えてくれるんだとか。
もし、そうであるなら、なるべく長い間珈琲香に包まれていたほうがよい。そうもいえるのかも知れませんが。
珈琲豆を挽く時にも珈琲香はあらわれますし、ドリップで淹れる時にも、珈琲香はたちのぼってくれますからね。
あるいはまた、珈琲専門店の扉を開けた瞬間にも、珈琲香のなかに入ってゆくことなるでしょう。
珈琲がお好きだった文人に、宇野浩二がいます。宇野浩二を師と仰いだ作家が、水上 勉。
当時、「小説の神様」とも言われたお方です。
「私がはじめてカフエエ・パウリスタに行った時分は、あそこの二階は、西洋風にはしてあったけれど……………。」
宇野浩二著の随筆『わが文学遍歴』に、そんな文章が出てきます。宇野浩二は、「カフエエ・パウリスタ」と書いているのですが。たぶん、「カフェ・パウリスタ」のことでしょう。
カフェ・パウリスタは、明治四十四年に、今の西銀座七丁目に開店しています。その頃には、「宗十郎町」の地名だったという。
珈琲が一杯、五銭。これは手頃な値段だったそうですね。ブラジル政府から、珈琲豆の贈物があって、タダ。それで、五銭で珈琲が飲めたんだという。この「カフェ・パウリスタ」流行りに流行って、日本全国に支店を開いてもいます。時には、芥川龍之介も顔を出したとも。
「僕は珈琲も閑却して、漫然とマドロス・パイプを咥へながら、暖炉の中に揺いでゐる赤い焔を眺めてゐた。」
芥川龍之介が大正九年に書いた『銀座の或喫茶店』に、そのような一節が出てきます。大正時代のはじめ、芥川龍之介が喫茶店で珈琲を飲むこともあったのでしょう。
「宇野も私も酒が飲めない代り珈琲が好きであつた。」
広津和郎著『月日のあしおと』に、そのように出ています。作家の、広津和郎は、宇野浩二と親友だった人物。大正四年頃の話として。
大正四年頃、宇野浩二と広津和郎はよく、三保の浦へ行った。翻訳原稿を書くために。
三保の近くに「江尻」があって。ここまで、散歩に。江尻に一軒の洋食屋があって。頼めば珈琲を淹れてくれたと、広津和郎は書いています。
珈琲が出てくる小説に、『北緯四十二度線』が。1930年に、ジョン・ドス・パソスが書いた物語。
「フェイニイはまだコーヒーを飲んだことがなかったので、大人のようにちゃんとした恰好でそれを飲むんだと思うとひどくうれしくなった。」
これは駅の屋台で、子供たちに、朝食を食べさせている場面。
ジョン・ドス・パソスの『北緯四十二度線』を読んでおりますと、こんな描写も出てきます。
「………ジェネヴァ湖の大礼服とシルクハットの紳士たちとダイヤの淑女たちと……………。」
ここでの「ジェネヴァ湖」は、「ミシガン州からやって来た」の意味かと思われます。
大礼服は、「コート・ドレス」c o urt dr ess とも。もともと「宮廷服」だったからです。
日本でも明治から大正にかけての紳士たちは、正装としてのコート・ドレスを着たものであります。
金糸銀糸のふんだんな手刺繍。この上なく高価でありました。今なら、最高級の車が楽に買える値段だったのです。
どなたか今に着られるコート・ドレスを仕立てて頂けませんでしょうか。