エマニュエルは、人の名前にもありますよね。たとえば、エマニュエル・カントとか。
ここでエマニュエル・カントと言いますと、たぶんお叱りを受けることでしょう。
「それを言うなら、イマニェル・カントだろう!」
たしかにどの研究書を開いても、「イマニェル・カント」と書いてりますからね。
カントは今のポーランド、ケーニヒスベルクに生まれています。1724年4月22日に。この時、お父さんがつけた名前は、「エマニュエル」だったのです。が、エマニュエルが大きくなってから、自分で「イマニュエル」に変えたのであります。
つまり少年の頃のカントは、「エマニュエル」と呼ばれていたのですね。
カントは広く識られているように、肉体頑強なお方ではありませんでした。しかし、その一方で、頭脳頑強な人物でありました。この世に思考するために生まれてきたお方なのでしょう。
毎朝、カントは4時55分に起床。というよりも毎朝、4時55分に、ご主人のカントを起こすのが、下男の役目だったそうですね。
このことからも窺えるように、カントは時間に正確な人物でもあったようです。
カントの朝の散歩に合わせて、近所の人は時計の針を調整したという。
そして、カント自身は十八世紀すでに、腕時計を嵌めていたそうです。
靴下をガーターで留めて、髪粉を振りかけ、上着を着た。このカントの上着が特別製で、滑り留がついていた。
カントは小柄な体型で、極端な前屈み。このカントが羽織っても上着がずり落ちないように、滑り留めがついていたんだそうですね。
カントは少食なお人でもあったらしい。それも一日一食。ある時珍しくチーズを食べて、具合が悪くなったほど。
一日一食の食事は、豪華絢爛で、友人たちを招いて、四時間くらい。ただしカントは友人が食事するのを眺めるのお好きだったという。
専ら、会話、会話、会話。ただし、哲学の話だけは避けるのが、不文律だったそうですが。
「これまで私は本当に病気と言えるようなものに罹ったことはありませんでしたし、今でもその恐れはありませんが、ここ二年間は家から外に出たことはありません。」
1802年4月28日、「シェーン」に宛てた手紙の中に、カントはそのように書いています。
カントは幼少期が病弱でありました。が、八十歳の長寿を得ています。
18042月12日。最後に、水割ワインを一口飲んで、「ああ、美味しい」。これが最期の言葉だったそうですね。
エマニュエルが出てくる日記に、『ジッドの日記』があります。
「………エマニュエルが私のそばにいないことが、悲しくてたまらなくなった。」
1895年12月15日の『日記』に、ジイドはそのように書いています。
また、1910年1月1日の『日記』には、次のような文章が出てきます。
「………短靴などとロマンチックに言ったが、ほとんど皆が縄底のズック靴をはいていたように思う………」
これは旅先でのジッドの見聞として。
「縄底のズック靴」。これはたぶん「エスパドリーユ」
e spadrille のことかと思われます。その昔、エスパルトの繊維を靴底に使ったところから、その名前があります。
どなたかロマンチックなエスパドリーユを作って頂けませんでしょうか。