パリは、フランスの都ですよね。また、藝術の都でもあります。人は誰でもパリに行くことで藝術家の心を持つようになるようです。ファッションの世界で申しますと、高田賢三でしょうか。
高田賢三は船でパリに渡る前は、銀座の「三愛」で働いていたことがあります。銀座とパリ。そのモオドにおける刺激には、多いに異なるところがあったでしょう。
画家では、藤田嗣治でしょうか。藤田嗣治もまた1913年に船でパリに渡っています。
当時のパリには、世界から優れた絵師が集まっていました。藤田嗣治は先輩たちを見渡して、さすがに天狗の鼻も折れたようです。
そこで「日本人ならではの画法」を工夫するわけですね。「面相筆」はひとつの例でしょう。
藤田嗣治と同じく、スペインからパリに出ていたのが、ピカソ。ピカソと藤田嗣治は、五歳、ピカソがお兄さん。もちろんパリでの交遊がありました。
1930年代に一時期、東京に帰っていた藤田嗣治は、パリのピカソに宛てて手紙を書いています。
「この服にはボタンというものがありません。着物は帯を体に何回も巻いて留めます。」
藤田嗣治はピカソに対して、懇切丁寧に、今自分がどんな暮しをしているのか、報告してます。
1938年3月2日の日付になっているのですが。
また、藤田嗣治が東京でタクシーに乗った時の話も出てきます。
「素敵なネクタイですね。どちらでお買いになったのですか。」
タクシーの運転手に、パリでのネクタイを褒められた話だとか。
ピカソへの手紙の最後には。
「あなたの藤田より」となっています。
パリが出てくるミステリに、『通過者』があります。2011年にパリ生まれの作家、ジャン=クリストフ・グランジェが発表した長篇。
「………ここは小パリですよ」、あるいは「格調ある都会」、「ワイン天国!」と聞いていた。」
これはフランスのボルドーの町について。
また、『通過者』にはこんな描写も出てきます。
「………金と赤褐色色の柄入りジャワ更紗のワンピース、七0年代に流行ったそうだ。」
これは医者の、マティアス・フレールがら眺めての若い女性患者の様子として。
ここでの「ジャワ更紗」は、バティックbatik のことでしょう。東南アジアでの染色方法。蝋で保護するところに特徴があります。
どなたかバティックの上着を仕立てて頂けませんでしょうか。