レストランは、西洋料理店のことですよね。
restauran と書いて「レストラン」と訓みます。これはフランス語の「レストレエル」restaurer
と関係があるんだそうですね。「元気回復」の意味があったという。
「彼は西洋料理店でウイスキーを傾け、二三の洋食を貪り、それから気まぐれに神田の西洋書店に立ち寄った。」
明治四十一年に、正宗白鳥が発表した小説『何処へ』に、そのような一節が出てきます。明治四十年頃には、レストランよりも「西洋料理店」のほうが一般的だったのでしょうか。
なにしろ『何処へ』には、「点灯夫」の言葉も出てくるくらいですから。点灯夫(てんとうふ)は、街灯のガスに火を点けて周る人のことです。
レストランが出てくる小説に、『葬列』があります。明治三十九年二年、石川啄木が書いた創作。『葬列』は、久しぶりに主人公が盛岡に帰る内容になっているのですが。
「女学生の靴を穿くようになった事、中津川に臨んで洋食店の出来た事。」
その変化に驚いている様子なのですが。
石川啄木は、「洋食店」と書いて、「レストウラント」のルビを添えています。
もしこれを今のレストランだと解釈するなら、小説にあらわれた「レストラン」としては比較的はやい例かも知れません。
石川啄木が東京へ出たのは、明治三十五年十一月一日のことなんだそうです。午前十時に上野駅に着いています。石川啄木、十七歳の時に。
11月21日には、当時あった洋書店「中西屋」と「丸善」とを覗いています。
六年ほど日毎日毎にかぶりたる
古き帽子も
棄てられぬかな
石川啄木には、『古帽子』と題するそんな詩があります。
これは実際の話で、上京時の石川啄木は、着物の上にご自慢のグレイのソフト・ハットをかぶっていたんだそうですね。
ほかほかした日。金田一君と談った。十二時頃岩動保治君が来た。金田一君と三人でカルタ。
明治四十ニ年一月三日、日曜日の『日記、』に、石川啄木は、そのように書いています。
ここに「金田一君」とあるのは、金田一京助。日本の偉大な国文学者。石川啄木の、盛岡中学での先輩が、金田一京助。
そして、もう一人の先輩が、野村胡堂。石川啄木は、野村胡堂にも、金田一京助にも、ずいぶんとお世話になったそうですね。
えーと、レストランの話をしてるんでしたね。レストランが出てくる随筆に、『時の名残り』があります。作家、津村節子の随筆集。
「夕食は一階ロビーの傍のレストランで、案内されたのは奥まったテーブルだった。」
これは、箱根への一人旅の様子として。津村節子は同じく作家のご主人、吉村 昭を先になくされて。それ以降は多く一人旅。でも、以前の吉村
昭との二人旅が思い出されて。そんな内容になっています。
津村節子が、1964年に発表した小説に、『さい果て』があるのは、ご存じの通り。夫婦二人で、北の町にメリヤス商品を売りに行く話。これも津村節子たちが実際に経験したことなんだそうですが。この中に。
「東京であんなにうまく着こなされたジャンパー姿を見たことがないと思いながら、私はしばらく男の後姿をぼんやりと見送っていた。」
これは北の町で出会った男の革ジャンパーについて。
革ジャンパー。レザー・ジャケットでしょうか。レザー・ジャケットであろうとなかろうと、服はすべて「着こなし」で活きもし、死にもするのでしょう。
どなたか活きた着こなしがしたくなるレザー・ジャケットを仕立てて頂けませんでしょうか。