文豪とブラック・ヴェルヴェット・コオト

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文豪は、小説の大家のことですよね。文藝の神樣のことを、「文豪」と呼ぶのでしょう。
文章の豪傑ですから、これはもう叶いません。この場合の「豪傑」は外にどんな時に使うのでしょうか。金豪という表現はありません。お金儲けの達人でも金豪とは申しません。
でも、剣豪とは言います。今すぐには剣豪か文豪かしかくらい思い出せないのですが。

文豪が出てくる文章に、『文芸と生活』があります。昭和五年に、菊池 寛が発表した論文。

「この人がロンドン・タイムスにトーマス・ハーディは世界的の文豪ではあるが、そのお葬式にどうして皇室のお方がお出にならないかと言つて怨みがましいことを言つて居る。」

これは当時の雑誌『雄辨』一月号に発表されたものです。講演の記録ではありません。でも、講演の記録のようでもあります。
それはともかく、ここで菊池 寛が語っているのは、さすがに英国は「文芸」の社会的位置が高い、ということなのでしょう。
菊池 寛は、『文芸と生活』の中で、宮本武蔵を引合に。出しています。「武蔵は頭を使ったから、負けることがなかった」と。

ところで、菊池 寛の講演を聞いた人物に、文芸評論家の、佐伯彰一がいます。
昭和十四年の春。富山で。その頃、佐伯彰一は、学生。文学青年だったので。
菊池
寛は演壇で、訥々と話すのですが、その内容がとても感銘深かったと、書いています。また、講演の後、宿に押しかけて、同行の小林秀雄にも会った。そんな想い出をも語っているのですが。

文豪。さて、世界の文豪はどなたでしょうか。英国なら、シェイクスピアでしょうか。少なくとも戯曲の偉人とは言えるでしょう。
英国の小説では、どなたなのか。たとえば、ディケンズ。もちろん、チャールズ・ディケンズ。ディケンズは平民階級から、苦労に苦労を重ねて、ついに文豪と言われるまでになった作家であります。
ディケンズが、1868年に発表した小説に、『バーナビー・ラッジ』があります。この中に。

「午後になるとジョージ卿は、黒いビロードの上着、格子縞のズボンとチョッキ、仕立てはすべて同じクェーカー的で虚飾を排した衣服をまとって外出し」

そんな文章が出てきます。ここでの「クェーカー的」とは、「質実な」といった意味かと思われます。
どなたかブラック・ヴェルヴェット・コオトを仕立てて頂けませんでしょうか。

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