文藝とぶっさき

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone

文藝は、読物の藝術のことですよね。ただ、そこに書いてある活字を読むだけで、心が騒ぐわけですから、「藝術品」という外ありません。それも文章の長短には関係ないのです。たとえば。

人生は一箱のマツチに似てゐる。重大に扱ふのは莫迦々々しい。重大に扱はなければ危険である。

芥川龍之介の『侏儒の言葉』に出てくる名言です。これは一例で、『侏儒の言葉』は、芥川龍之介の才能が遺憾なく発揮されています。まさに文章の藝術だと言えるでしょう。
芥川龍之介の『侏儒の言葉』は、最初、『文藝春秋』に連載されたものです。
『文藝春秋』は今もある老舗雑誌であること申すまでもありません。
『文藝春秋』は、大正十二年にはじまっています。菊池 寛が、自宅を開放して、そこを編集部にすることで。

「私は頼まれて物を云ふことに飽いた。自分で、考えてゐることを、読者や編輯者に気兼ねなしに、自由な心持ちもで云つて見たい。」

菊池 寛は『創刊の辞』のなかに、そんなふうに書いています。
『文藝春秋』創刊号は、一冊、十銭で、三千部刷ったという。これは売れて、第二号は、四千部に殖えたそうです。

「執筆者無慮三十六人、こんなに顔触の揃つて居る雑誌は、この所一寸少いやうな気がする。」

菊池 寛は、そんなことも書いています。

文藝雑誌が出てくる評論に、『舟橋聖一・解説』があります。有馬頼義が、昭和四十一年に発表した文章。

「文藝雑誌や中間雑誌や、新聞や週刊誌に対して、書くものを積極的に選んでいる」

有馬頼義は、舟橋聖一について、そんなふうに書いています。
有馬頼義が舟橋聖一にはじめて会ったのは、昭和九年頃のことだったらしい。有馬頼義がまだ早稲田大学の学生の時代。
まず、片岡鉄兵を識り、片岡鉄兵から、武田麟太郎に紹介され、さらに高見 順、舟橋聖一に出会ったと、書いています。
これは舟橋聖一の『花の生涯』の、解説文の中でのこと。
舟橋聖一の『花の生涯』に、こんな一節が出てきます。言うまでもありませんが、『花の生涯』は、井伊直弼を描いた時代物であります。

「佐野は、股引脚絆に黒木綿のぶっさき羽織。白い紐をだらりと下げ、その下に白襷をかけている。」

「ぶっさき羽織」。これは当時の武士が着た羽織のひとつ。ぶっさきがある羽織なので、「ぶっさき羽織」。
ぶっさきは西洋風に申しますと、「スリット」。ヴェントの少し手前くらい。
羽織の中央、裾口に十五センチほどの開きを用意しているのです。馬への乗り降りに都合が良いように。ぶっさきもまた、れっきとした和裁用語なのですね。

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone