埃高き色
カーキはややダークな黄褐色のことである。古い言い方をするなら、「国防色」であろうか。
カーキ、カーキー、これはどちらも使われるようである。あるいはまた、カーキ色とも。
カーキ色の範囲は、広い。イエローに近いカーキもあれば、ほとんどグリーンと呼びたい色もある。そのようなわけで、カーキを限定するのは、難しい。百科事典などではどのような説明するのか。
「黄褐色を帯びた土色。遠く望めば、地物と区別し難し。故に軍隊にて、敵の発見を免れんため、戦時の被服に此の色を採用す。」
三省堂篇『大日本百科辞典』 ( 明治四十四年刊 ) にはそのように解説されている。少なくとも日本でもはやくからカーキ色が知られていたことが分かる。ついでながら、日本でのカーキ色の採用は、明治三十三年のことであるという。
カーキそのものはじまりは、1846年のことと記録されている。英国陸軍のある大佐によって。ただしその場所は、パキスタン北部の町、ペシャワルにおいてであった。当時、この地に駐留していたのが、「英国陸軍斥候隊」。それはインド人を中心にした不正規隊であった。この斥候隊を率いるのが、ハリー・バーネット・ラムズデン大尉。
彼らのユニフォームは外地夏季用の白い軍服であった。ラムズデンはそれでは目立ち過ぎると考えた。それで急遽、目立たない色に染めたのである。つまり今の言葉でいう、カモフラージュが目的であった。一説に、汚れた川の水で染めたとも伝えられている。
川の水とはにわかには信じられない。しかしかなり後になってこんなことがあった。1882年頃、いよいよカーキを正式採用しようという時に、英国の科学者、フレデリック・ガッティが合成染料を提案。これに異を唱えたのが、サー・ラムズデン。ラムズデンはこの時には「サー」の称号が与えられていた。サー・ラムズデンはこう言った。
「カーキは白い生地を泥水で染めなくてはならない。」
このサー・ラムズデンの意見と考え合わせる時、川の水で染めたという話も一蹴できないのである。
それはともかく斥候隊がカーキのユニフォームで揃って出動したのは、1847年1月のことという。カーキ khaki はペルシャ語の「ハーク」 khakから来ているとのこと。それは「埃」とか「灰」の意味であった。あるいはラムズデンの部下がそのように名づけたのかも知れない。
1849年12月11日。英国砲兵隊がサンガオと呼ばれる地域で、怪しい一隊を発見。双眼鏡でよく見ると、それはカーキのユニフォームを着た味方だったのだ。1849年頃には、ごく一部でしかカーキが知られていなかってものと思われる。
1857年5月25日。パンジャブの「第五十二連隊」が、カーキ・ユニフォームを採用。英国連隊でのカーキは、これが最初であるらしい。これはジョージ・キャンベル大佐の決断によるものである。
1878年からの第二次アフガン戦争では、適当な染料がなく、紅茶を煮出してそれで染めたこともあったという。
「後にはカーキー色の軍服を着た士官が二人居た。」
夏目漱石著『行人』 (1913年刊) の一節。これは主人公の二郎が雅楽を聴きに行った会場での様子。「カーキー色」が出てくる小説としては、比較的はやい例であろう。
「くしゃくしゃのブッシュ・ハットに、カーキ色のシャツとスラックスといういでたちだった。」
ジャック・ヒギンズ著『復讐の血族』( 2001年刊 ) の一文。これは大学教授、ハル・ストーンの服装。サファリ・シャツに似た、スーツなのであろうか。このような平和な着こなしは大いに歓迎したいものである。