榎本と燕尾服

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榎本は日本人の名前にありますよね。明治はじめの偉人で、榎本といえば、榎本武揚でしょうか。本名は、榎本釜次郎。榎本武揚と書いて、「えのもと・たけあき」と訓みます。時に、「ぶよう」とも。
明治二年の「箱館戦争」は有名でしょう。今も「五稜郭」が遺されています。明治二年に、敗戦。
ところが明治五年には、明治新政府に雇われています。「敵ながら天晴れ」というところでしょうか。この榎本武揚の例は珍しいでしょう。それだけ榎本武揚が才人だったのでしょうね。
明治七年には、特命全権公使とシベリアに。同じ年の六月に、ペテルブルグに着いています。
明治十一年に、帰国。行きは主に、船の旅。帰りに榎本武揚が選んだのが、陸路。多くは馬車と汽車での旅。榎本武揚はなんとしてもシベリア全土をこの目で見ておきたかったのでしょう。
その時の記録が、『榎本武揚 シベリア日記』なのです。

「汽車すでに発す。車中において予が貯め置きし日本酒一壜開けて飲む。」

明治十一年七月二十六日の『日記』に、そのように出ています。うーん、分かりますよね、その気持。また、こんな日記もあります。

「午前買ひ物に出て、外套、メガネ、シベリヤ図、ガリバルヂ帽子等を買ふ。価はなはだ貴からず。」

8月16日の『日記』に、そのような記述が読めます。8月16日に、外套が必要だったのでしょうか。物価は安かったようですが。
この日のランチはどうだったのか。

「午飯にアセトリーナ魚を食ふ。味はステリリャナに彷彿たり。」

この日の昼に榎本武揚は、チョウザメを食べているのです。そしてチョウザメの卵が「キャヴィア」であることを、ちゃんと知っていたようです。
榎本武揚は行く所行く所で、大歓迎。朝からシャンパン攻めで、いささかうんざりでもあったようですね。

榎本武揚が出てくる伝記に『渋沢栄一伝』があります。著者は、幸田露伴。

「また幕臣榎本武揚が海軍を率いて函館に拠ったということを知った。」

これは渋沢栄一が、フランスからの帰国の際に。
渋沢栄一は慶應三年、フランスに向けて出発。徳川昭武のお供として。その出発前の様子を幸田露伴はこんなふうに書いています。

「………大久保源蔵という男が横浜で買つて来たホテルの給仕などが著たらしい燕尾服一枚………」

西洋に行くには西洋服をと考えたのでしょうが、慶應二年頃のことですから、燕尾服もろくには揃えられなかったのでしょう。
今なら、燕尾服を仕立てるに得意なテイラーもいらっしゃるでしょうが。
どなたか完璧なる燕尾服を仕立てて頂けませんでしょうか。

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