たい焼きは、菓子のことですよね。
「子供が食べる鯛焼きというものを買ってきてくれとせびった。」
昭和十三年に、石川達三が発表した小説『結婚の生態』に、 そのような一節が出てきます。これは妻の其志子の言葉として。
たい焼きは少なくとも戦前からあったものと思われます。
「と見れば、豆板屋、金平糖、ぶっ切り飴、 ガラスの蓋の下にはいっており、その隣は鯛焼屋、 尻尾まで餡がはいっている焼立てで、 新聞紙に包んでも持てないくらい熱い。」
昭和二十一年に、織田作之助が発表した小説『アド・バルーン』 に、そのような描写があります。 これは当時の心斎橋近くの夜店を眺めている場面として。 織田作之助もまた戦後間もなくの時代に、 たい焼きを食べたのでしょう。たしかにたい焼きを食べたお方に、 安藤鶴夫がいます。
「しツぽからたべたら、しツぽのはじっこまで、 見事にあんこが入っていた。 ぼくはたいやきの通では決してないが、戦争この方、もう永い間、 たいやきのしツぽにあんこが入ってのをたべたことがない。」
昭和三十年に安藤鶴夫が書いた随筆『四谷に住んで』に、 そのように出ています。これは当時、四谷にあった「わかば」 というたい焼き屋の話なのですが。
この安藤鶴夫の随筆がきっかけになって、 たい焼きの尻尾まで餡が入るようになった。 そんな印象があるのですが。
安藤鶴夫の代表作に、『本牧亭』があるのは、ご存じの通り。 この小説の主人公は、近藤亀雄。略して、「近亀」。 ちょうど安藤鶴夫が、「安鶴」と呼ばれたように。つまり、 小説の近亀は、安鶴のことと考えて間違いないでしょう。
「ベレーと靴だけは黒だが、 たしかにあとはみんなグレーずくめである。」
近亀は、グレイの服装がお好きだった。ある時、 桂三木助がそれをネタに、高座で一席演ったほどに。
「昭和二十六年の暮れに、その緑色のネクタイは、 ぼくにはおどろきの、恐れであった。」
安藤鶴夫は、随筆『茗荷谷のころ』の中に、 そのように書いています。
その頃、「ラジオ東京」で、「参与」というのがあったらしい。 その参与の一人に、グリーンのネクタイを締めた大学教授がいて、 安鶴が驚いた話になっています。
いつも似たような無地のネクタイも悪くないものです。その昔、 吉田健一が、紺の無地のタイばかりだったように。
どなたかグレイの無地のタイを作って頂けませんでしょうか。