ママとマリオーネ

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ママは、母のことですよね。お母ちゃん。英語なら、「マンマ」。フランス語なら、「ママン」でしょうか。

誰にもママはいます。ママがいてくれたからこそ、この世に生まれてきたのですから。
「母の独学人生はこの時からはじまった。その母の生きてきた痕跡が染みついている蔵書は、おいそれとは捨てられないぞという気持になった。」辻井 喬が、2005年に発表した『書庫の母』に、そのような一節が出てきます。亡き母の書庫を整理しようとした主人公が、母の想いの前に、捨てられなくなってしまう場面。
辻井 喬の本名が、堤 清二であるのは言うまでもないでしょう。堤 清二のお母さんは、堤 操。歌人でもあったお方。堤 操はわけあって、和歌を独学で学んでいるんだそうですね。その書庫の本が捨てられない堤 清二のお気持、よく分かります。
「文学者の小林秀雄が最近亡くなった。晩年の小林秀雄君の顔がお母さんの顔と非常によく似てきたという話を、ちらりと耳にしたことがあった。」
作家の丹羽文雄は昭和六十年に書いた随筆『母の加護』に、そのように出ています。これはご自分の顔が、母に似てきたので。
「また彼女ほど、生涯を通してきびしく潔癖症を貫いた人は稀だろうと思う。神のような純粋さを子供の私は信じていた。」
岡本太郎は、岡本かの子について、そのように書いています。『母の業』と題する随筆の中に。
うーん、ママもなかなか忙しいですね。時に魔女になったり神になったりするのですから。
母親はひと晩ぢう、子守歌をうたふ 母親はひと晩ぢう、子守歌をうたふ
中原中也は、『子守歌』の中に、そのように詠んでいます。
中原中也は、明治四十年四月二十九日、今の山口県湯田温泉に生まれています。母フクの長男として。
「中也はたいした人間にもようならず、自分でもつまらない人生を送っているという気持があって、ああいうのを詠んだのでしょう。」
阿部 昭の随筆『詩人の母』に、そのような一節が出てきます。これは中原フクの息子への言葉として。中原フクは、長命だったお方。昭和五十五年十一月に、百一歳でお亡くなりになっているのですが。阿部 昭が取材に行った時、まことに謙虚で、息子を自慢すること、一切なかったという。これもまた、明治女の美学だったのでしょう。
中原中也の没後、小林秀雄は湯田に中原フクを訪ねたことがあるんだそうですね。その時の小林秀雄はフクの前で泣いたと伝えられています。
ママが出てくる小説に、『炎』があります。イタリアの作家、チェーザレ・パヴェーゼが、1947年に発表した短篇。
「ママも行くの?」
また、チェーザレ・パヴェーゼの小説『青春の絆』には、こんな描写も出てきます。
「相変わらず大きな体を、長々と伸して、黄色いセーターに身を包んでいた。」
これアメーリオという青年について。ここでの「セーター」は、「マリオーネ」maglione でしょうか。
どなたか黄色いマリオーネを編んで頂けませんでしょうか。「ママ」と名づけて大切にいたしますから。
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