珈琲は、嗜好品ですよね。好きだから、飲むもの。それが珈琲の本質なんでしょう。
本質といえば、「間」。珈琲の本質は「間」だと思います。話の間。音楽の間。藝の間。句読点。
人生に於ける間が珈琲ではないでしょうか。
「僕はさつきこの珈琲の片隅で、知り合ひの或雑誌編集者と、とぎれ勝ちに雑談を続けてゐた。」
芥川龍之介が、大正九年に発表した短篇『銀座の或珈琲店』に、そのような一節が出てきます。時間は午後八時半頃。店は客で混んでいる様子が描かれています。
もちろんこれは、創作。でも、芥川龍之介もまた、珈琲を飲んでいたのではないでしょうか。
珈琲がお好きだった作家に、小沼 丹がいます。
「紹介ありて行くと、主人が箱を開き、烟草、酒、ウヰスキイ、砂糖、珈琲等何でも望みのものを取出す。」
小沼
丹が、平成六年に発表した随筆集『珈琲挽き』に、そんな文章が出てきます。これは昭和二十年頃の話として。闇物資としての珈琲豆を扱う店が、新橋駅から田村町に向う左側の裏手にあったと、書いています。
昭和二十年頃は、物資払底の年で、珈琲豆は黒いダイヤモンドほどに貴重品だったのでしょう。
それをわざわざ探して買いに行こうとするわけですから、小沼 丹はやはり珈琲好きだったのでしょう。
小沼 丹は、当時、高崎にも行っています。その時代はたいてい代用珈琲の時代で。ところが一軒、高崎に本物珈琲を飲ませる店があると聞いて、高崎に。小沼
丹はよほど珈琲がお好きだったとみえます。
珈琲が出てくる随筆集に、『僕は珈琲』があります。片岡義男が、2022年に発表した珈琲本。珈琲のことばかりの本なので。
喫茶店に行くとたいてい、「僕は珈琲」と注文する。この「僕は珈琲」の言い方が面白いと、題名にしたらしい。
この『僕は珈琲』の中に、映画『或る夜の出来事』の話が出てきます。クラーク・ゲイブルと、クローデット・コルベール共演の映画。
一夜明けて、ふたりで朝食。珈琲とドーナツで。その食べ方をクラーク・ゲイブルが、クローデット・コルベールに教える場面。一瞬、ドーナツを珈琲に浸して、口に運ぶんだ、と。私は忘れていましたが。いかにもアメリカ的な場面なんでしょう。
珈琲が出てくる小説に、『土壇場で賢く男を選ぶには』があります。アイルランドの作家、マリアン・キーズが、1999年に発表した物語。
「それからかなりたって、フレンチコーヒーを数杯飲んだところで、キャサリンは例のパープルネイルがレジを閉めて帰宅 ー でなければ、」
そんな一節が出てきます。また、『土壇場で賢く男を選ぶには』に、こんな描写も出てきます。
「フィンタンのこれまた兄のティモシーは、ピンストライプの入った紺色の、下襟の大きな、フレア型の三つ揃えを着ていた。」
ここでの「下襟」は、ラぺルのことでしょう。上襟があって、下襟があります。この間の境界線が、「ゴージ・ライン」gorge line
。直訳すれば、「喉線」でしょうか。
このゴージ・ラインは上着の印象を一変させるところがあります。
どなたか粋なゴージ・ラインのスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。