ハスキーは、声の表現にもありますよね。ハスキー・ヴォイスというではありませんか。
husky と書いて、「ハスキー」と訓みます。ちょっとしゃがれた声ことです。なんとも魅力的ですね。
たとえば、ヘレン・メリル。たとえば、『ニアネス・オブ・ユウ』だとか。「ニュウヨークのため息」と形容されたものであります。
ハスキーが出てくる随筆に、『父の詫び状』があります。向田邦子が、昭和五十二年に発表したものです。
「開会の辞よりも井戸端会議が似合いそうな、いささか下世話なハスキーボイスに、少々びっくりした。」
これは『昔カレー』の章題に出てくる文章なのですが。
昔カレー。そういえば昔、赤坂の「ままや」でひと口カレーを食べた記憶があります。「ままや」は今はありません。その頃、妹君の向田和子さんがやっていらした食堂。たぶん、向田邦子も時にひと口カレーが食べたい時があったのでしょう。
「こうしてみると文章の才というものは天賦のものらしい。向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である。」
2011年に、山本夏彦は『名人』の随筆に、そのように書いています。
山本夏彦は辛口のお方で、めったに人を褒めることのない人物。その頃話題になったものであります。
向田邦子はおしゃれとも関係があります。向田邦子は昭和二十七年、二十三歳の時に、「雄鶏社」に入っていますから。その頃の雄鶏社は編物の本を多く出していた出版社。
それ以前の向田邦子は、学校を出て「財政文化社」の社長秘書になっています。そこを辞めて、雄鶏社に。つまり、秘書から編集者に変身したわけですね。
雄鶏社は1945年の10月、武内俊三がはじめた出版社。1952年には、『映画ストーリー』を創刊しています。
向田邦子は1958年5月21日に、入社。そこで配属されたのが、『映画ストーリー』編集部だったのです。
『映画ストーリー』で同僚となったのが、上野たま子。上野たま子は『帽子』と題する随筆の中で、その頃の向田邦子を語っています。
「手先が器用で、よく帽子を作ってもらいました。色は濃いワインカラー。私はそれをとても気にいっていて、毎日のように被っていました。」
入社当時の向田邦子は、誰よりもはやく出社して、編集部の掃除などもしてくれたとも、上野たま子は書いてあります。
向田邦子が『映画ストーリー』を辞めて、独立のライターになった頃、出会ったのが、常盤新平。昭和三十六年頃の話なのですが。向田邦子、三十二歳。常盤新平、三十歳。
清水俊二のホームパーティーで。清水俊二は、映画の字幕翻訳家。常盤新平の先輩にあたります。向田邦子にとっては、『映画ストーリー』時代の執筆者だったのでしょう。
当時、清水俊二の自宅が世田谷にあって、毎年の11月27日が清水俊二の誕生日だったので。
「向田さんの新旧バランスの良さは、十年近く銀座でお勤めになったこともあるように思います。あの頃の銀座は特別でしたからね。」
常盤新平は向田邦子についてそのように語っています。
えーと、ハスキーの話でしたね。ハスキーが出てくるミステリに、『魔法人形』があります。1937年に、マックス・アフォードが書いた物語。
「彼がゆっくりと微笑んでハスキーな声で挨拶したとき、ここにいるのは今まで目にした中でも最高の美人に違い、ないとブラックバーンは思った。」
これは「カミラ・ウォード」という女性について。また、『魔法人形』には、こんな一節も出てきます。
「分厚いセーター ハリスツイードの上下という気取りのない服装がかえって魅力的だった。」
– これは「ジャン」の着こなしとして。
– どなたかハリス・トゥイードのスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。
これは「ジャン」の着こなしとして。
ハリス・トゥイードは、一般化されるのがはやかったトゥイードでもあります。そのために認知度の高いトゥイードにな