歌は、ソングのことですよね。音階があって、リズムがあって、それに合わせて詞を声に出せば、自然に歌になります。野原をひとり歩いていると、知らず知らずのうちになにかを口ずさんでいることがあります。愛唱歌ともいえない愛唱歌なのでしょう。
「歌は世に連れ、世は歌に連れ」。そんな言葉があります。
流行歌だけでなく、歌はその時代を語る世相であり、文化でもあるのでしょう。
歌には歌謡曲もあり、ジャズもあり、ポップスもあり、シャンソンもあります。
シャンソンなら、たとえば『愛の讃歌』だとか『愛の讃歌』は、もともとピアフの作詞。1949年のことです。
恋人を突然に失った哀しさを歌ったものです。歌ったのももちろん、ピアフ。このピアフの『愛の讃歌』を巴里で聴いたのが、越路吹雪だったのですが。
1952年になって、越路吹雪は『愛の讃歌』を歌うことに。
その頃、日劇で、ミュージカル『巴里の歌』があって。トリに予定されていたのが、二葉あき子。二葉あき子が急病で。その後釜に、越路吹雪が。これは演出の山本紫朗の提案だったのですが。トリならば、『愛の讃歌』を歌ってみたい。
黛 敏郎のピアノで練習をすることに。さて、日本語訳をどうするのか。とりあえず、黛
敏郎の母君に。母君はフランス語に堪能だったので、日本語に直してもらう。次に、作詞をどうするのか。
「岩谷さん、あなたの外にはいませんよ」
それでまったくの突然に岩谷時子が作詞を担当することに。
🎶 あなたの燃える手で
『愛の讃歌』の歌詞はそんなふうにして生まれたのですね。
また、作詞家、岩谷時子の誕生でもあったのですが。
🎶 あなたの燃える手で あたしを抱きしめて ただ二人だけで 生きていたいの
これはピアフの原詩とはかなり違う内容になっています。訳詞と作詞の中間でしょうか。
岩谷時子の『愛の讃歌』は、なぜ名曲になったのか。それは岩谷時子が、越路吹雪の心のうちをよく識っていたからでしょう。
「私のサインの形を、決めてくれない? 」
と、そばへ寄ってきたのが、越路さんだった。
越路の路だけをひらがなにした、あのサインのスタイルは、このときに相談して決めた二人の合作である。」
岩谷時子の『愛と哀しみのルフラン』に、そのように書いてあります。
時は、昭和十四年。所は、「宝塚」の文芸部の部屋で。越路吹雪が文芸部の岩谷時子のところに遊びに来て。これが本格的な出会いだったという。
昭和十四年に、岩谷時子は、「宝塚」の文芸部に入っているので。越路吹雪、十七歳のことであります。
昭和二十年頃の宝塚もまた、食糧難の時代で。でも、ひとり明石から来ている女性がいて、実家は、漁師。「いかなご」に時期には、いかなごを分けてもらって。越路吹雪はじめみんなでいかなごを食べたこともあったそうですが。
「大声で歌いつづけるのが、気分転換にいちばん効果的といえそうだ。」
コリン・フレッチャー著『遊歩大全』に、そのような一節が出てきます。これは遊歩中、孤独にかられた時に。
また、『遊歩大全』には、こんな文章も出てきます。
「何年も前に使っていたシャツはブリティッシュビエラという素材だったが、アメリカ国内では現在これを探すのは、難しい。」
ここでの「ビエラ」は、「ヴァイエラ」Viyella のことかと思われます。
ヴァイエラは、ウールとコットンとの交織地。
ウイリアム・ホリンズ社の登録商標。コットンの良さとウールの良さとがあって、着心地満点。
どなたかヴァイエラのシャツを仕立てて頂けませんでしょうか。