東京は、日本の花ですよね。東京には日本のたいていのものが揃っています。東京駅の地下街を歩いてみただけでも、そのことがよくわかるでしょう。
「東京」は、歌の文句にも出てきますね。
🎶 なぜ泣くの 睫がぬれてる
これは『東京ナイトクラブ』の歌い出しであります。歌詞は、佐伯孝夫。作曲は、吉田 正。歌は、フランク永井と、松尾和子。ずいぶんと流行ったものです。
佐伯孝夫のヒット曲は数限りなくあります。たとえば、『銀座カンカン娘』。1949年に、高峰秀子が歌っています。『哀愁の街に霧が降る』。1956年に、山田真二が。
1957年に、『有楽町で会いましょう。もちろん、フランク永井。
これは「そごう」が開店するので、その前宣伝のために。開店当日は、大雨。でも、開店を待つ客が十重二重、店を取り巻いたと伝えられています。
昭和十一年頃の銀座を描いた随筆に、『恐しい東京』があります。夢野久作が、昭和十二年に発表した読物。
「三つの町は三つとも銀座尾張町なので、入口が四ツ在るのを知らずに、同じ四辻を別々の方向から眺めた感じが違ったのだ。」
それで、『恐しい東京』なんですね。
これは夢野久作が、上野の展覧会に行こうとして、銀座から地下鉄に。その地下鉄で、迷って。階段を上がったり、下がったり。そのたびに景色が違うので。
「尾張町」は、今の銀座四丁目。
「大徳とは銀座の帽子屋」と書かれた位学生に知られている博品館横の帽子屋も博品館と似たり寄ったりの姿となつて」
夢野久作が、大正十二年に書いた『変つた銀座の姿』に、そのように出ています。いうまでもなく、関東大震災のすぐ後で。
「大徳」云々の話は、学校の国語の試験。「大徳」にふりがなをという問題が出たので。もちろん、「だいとく」が正解なのですが。
当時、銀座にあった舶来帽子専門店のことです。
夢野久作の本名は、杉山直樹。明治二十ニ年一月四日、福岡に生まれています。
お父さんは、杉山茂丸。お母さんは、ホトリだったと伝えられています。
夢野久作の代表作は、『ドグラ・マグラ』でしょうか。昭和十年一月十五日に、「松柏館」から出版されています。その年の一月二十六日には、内幸町の「レインボーグリル」で、出版記念会が開かれたという。
「ところで、『ドグラ・マグラ』は犯人と探偵、正木博士と若林博士の二人とも、お互いを洞察するという点でやはり一流なのです。」
若い時に、夢野久作の『ドグラ・マグラ』を読んだ埴谷雄高は、そのように語っています。谷川健一との対談の中で。
夢野久作が昭和十年八月四日に書いた随筆に、『父杉山茂丸を語る』があります。
「父が私に羊羮を三キレ新聞紙に包んだのをドンゴロス(ズックの事)の革鞄から出して呉れた。」
これは夢野久作の子供の頃の想い出として。
「ドンゴロス」は、やや粗い綿布。よく袋などが作られたものです。ドンゴロスの語源は、「ダンガリー」dungaree
。ダンガリーが訛って「ドンゴロス」になったものです。
どなたかドンゴロスで上着を仕立てて頂けませんでしょうか。