大森は、東京の地名にもありますよね。大田区大森。もちろん、ここには大森駅もあります。
今は、大田区。でも、昔は「大森区」と言ったんだそうですね。昭和七年頃には。その頃の大森はすぐ目の前に海があったそうです。
明治二十四年には、「八幡海水浴場」が開かれています。それより前の江戸時代には、海苔の名産地。「大森海苔」は、質が良いので有名だったとか。今でも、大森の町を歩くと海苔屋が多いのは、その時代の名残なのでしょう。
🎶 トントン遠浅 シビには海苔よ
昭和のはじめには『大森海音頭』が流行ったという。作詞は、北原白秋。
その時代の大森は、三業地でもありまして。二百人からの芸者がいたんだそうですね。
大森でもうひとつ忘れてならないのが、「大森貝塚」。大森貝塚は、アメリカ人のモースによって発見されています。明治十年に。
エドワード・シルヴェスター・モースは、1838年6月18日、アメリカ、メイン州、ポートランドに生まれています。モースはもともと貝に研究家。
日本には珍しい貝類が多いというので、日本にやって来たんだそうです。
1877年6月18日、横濱に着いています。それはたまたまモースの三十九回目の誕生日だったのですが。
そのモースが横濱から列車で東京に向ったのは、6月19日のこと。横濱からやがて大森にさしかかった時、山肌に、貝塚らしき場所を発見。これがそもそもの大森貝塚の研究に発展したとのことです。
同じ年の7月12日には、今の東大教授になっています7月14日からの四十日間、江ノ島で、貝類の研究。東大は、モースの助手に、松村任三をつけて、研究費用をも支給しています。
「大森貝塚にも大きな特徴がある。第一に、莫大な量の土器があって、さまざまな形態があり、無限の変化をもつ装飾がある。」
モースは『大森貝塚』の中に、そのように書いています。
「品川女郎に袖引かれ、乗りかけ御馬の鈴ヶ森、大森細工の松茸を」と、『品川の豆』という小話がある。」
三遊亭金馬著『落語東京名所図絵』に、そのような一節が出てきます。江戸末期には、大森に細工があったのでしょうか。
三遊亭金馬著『落語東京名所図絵』は、三代目金馬と、四代目金馬との合作。三代目金馬が下原稿を作っておいたものを、四代目金馬があらためて、本原稿に仕上げた労作。
「八ッ山、御殿山をくずして、その土を海の中へ運ぶと云うわけで、難工事は今でも想像がつく。」
三遊亭金馬著『落語東京名所図絵』には、そのように出ています。もちろん幕末のお台場の工事について。
1853年、ぺルリ来航。これに驚いた江戸幕府が急ぎ築いたのが、お台場。お台場は要するに砲台のことだったのですが。
このお台場を主に担当したのが、江川太郎左衛門でありました。その費用、916、491両であったという。この莫大な費用のために幕府が発行したのが、「一朱銀」。銀に瀬戸物を混ぜた貨幣だったのですね。
当時の江戸庶民は、貨幣の音ですぐに一朱色銀だと解ったそうですが。それはともかく、幕府が作ったものなので、尊敬をこめて、「お台場」と呼んだわけであります。
上着の仕立て方にも、「お台場」があります。内ポケットの作りが、つき出ているので、「お台場」。幕府の洋服職人の言葉。
お台場仕立ての利点は、裏地の交換が容易いこと。明治大正の頃までは、裏地を替えてなお、上着を着続ける人が少なくなかったので。
どなたか長く着たい上着を仕立てて頂けませんでしょうか。