マルクとマッキン

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マルクは、昔のドイツの通貨のことですよね。今はユーロとしてヨオロッパ通貨に統一されているのですが。ユーロの前には、マルクと言ったものです。mark
と書いて、「マルク」。
でも、どうして、ここにマルクが出てくるのか。ベルツの話をしようと思っていますので。ドイツ人の医学者、エルウイン・ベルツのことであります。
エルウイン・ベルツは明治九年に来日。いわゆる「お雇い教師」として。今の東大の先生になっています。
ベルツは医者として多くの貴人の病を治したお方。また、その一方、日本文化を愛した人物でもありました。
それは『ベルツの日記』を一読すれば、すぐに理解できるでしょう。
ベルツの晩年、六十歳頃の話。ドイツ、シュツトガルトの大通りを、黄八丈の着物を着て、闊歩したという。このことだけからも、ベルツの日本通ぶりが窺えるではありませんか。
日本での、お雇い教師としての年俸は、16、200マルクであったと伝えられています。ただし、それを月額にして金貨で支払われる条件だったという。
しかも、滞在中の旅費や住居費は、別途支給されて。年俸、16、200マルク。当時としては想像を絶する高額だったようですね。
ベルツについて忘れてならないのは、「花」の存在でしょう。花の本名は、荒井はつ。荒井はつに「花」の名前を与えたのは、ベルツだったのです。
ベルツと花は、どうやって知り会ったのか。荒井そでを通じて。荒井そでは、荒井はつのお母さん。
明治九年、ベルツが日本に来た時、身のまわりの世話をしたのが、荒井そで。その頃の荒い井そでは、三十代。娘のはつは、十二歳。
はつはきれいで、また利発な少女だったようです。このはつをベルツが見初めて、「花」と名づけたのですね。
その後、ベルツと花は、結婚。花は、ベルツとの間に、トク・ベルツをもうけています。
このトク・ベルツは、『ベルツの日記』の編者でもあるのですが。

「服装の点でもまた、このような西洋心酔に自分は幾度口を極めて反対したかしれなかったが、徒労だった。」

明治三十七年一月一日の『ベルツの日記』に、そのような会話が出てきます。伊藤博文がベルツに語った言葉として。

これは宮中参賀の皇居でのこと。伊藤博文個人としては、日本人が西洋服を着るのには、反対だった、と。
伊藤博文としては、日本人には、日本服がふさわしいと、考えていたのでしょう。
ベルツは、明治九年六月二十六日に、「加賀屋敷」に入っています。加賀屋敷がベルツの住まいとして与えられたので。
ベルツが荒い井そでに手伝ってもらったのは、この加賀屋敷でのことだったのです。また、はつははつで、加賀屋敷のお母さんに会いに。ベルツに出会ったのも当然のことであったでしょう。

「昨日、マッキンレー大統領が刺客におそわれたとの報道。生命に別条がなければよいが。」

明治三十四年九月九日の『ベルツの日記』に、そんな文章が出てきます。
ウイリアム・マッキンレーは、アメリカ第二十五代大統領。1901年9月5日に、銃弾に倒れています。

昔の洋服職人の言葉に、「マッキン」があります。ズボンの裾の折り返しのこと。英語なら、「ターンナップ・カフ」でしょうか。
あの折り返しのことを、「マッキン」。これは一説に、マッキンレー大統領が穿いていたズボンに因んでとも言われています。
どなたかマッキンの美しいトラウザーズを仕立てて頂けませんでしょうか。

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