ジェイムズは、人の名前にもありますよね。たとえば、ジェイムズ・ディーンだとか。
作家の姓にも、ジェイムズはあります。一例ではありますが、ヘンリー・ジェイムズ。ヘンリー・ジェイムズはアメリカで生まれ、イギリスで世を去った人物。
「アメリカの作家」と呼ぶべきか、「イギリスの作家」と呼ぶべきか、迷ってしまうところがあります。
ヘンリー・ジェイムズは1843年4月15日、ニュウヨークのワシントン・プレイス21番地に生まれています。
お父さんもやはり、ヘンリー・ジェイムズ。お母さんはキャサリンだったと伝えられています。
お祖父さんの名前は、ウイリアム・ジェイムズ。ウイリアム・ジェイムズは1771年にアイルランドに於いて誕生。独立戦争の時に、アメリカに移民。その意味では、アイルランド系アメリカ人だったわけですね。
ウイリアム・ジェイムズは商才に長けたお方で、後に富豪になっています。
まず新興地マンハッタンで土地に投資。やがて銀行を開き、製塩をも手がけ、エリー運河を完成させ、富を築いたとのことです。
1832年にウイリアム・ジェイムズが天に召された時の資産、三百万ドルであったそうですが。
その息子が宗教学者の、ヘンリー・ジェイムズなのです。そしてヘンリー・ジェイムズの息子が、後に作家となるヘンリー・ジェイムズなのであります。
お父さんは息子のヘンリー・ジェイムズを学校には通わせず、それぞれ専門の家庭教師をつけた。
また、旅好きでもあって、1869年以降、イギリス、フランス、スイス、イタリアを家族同伴で旅行しています。
その結果、ヘンリー・ジェイムズは少年の頃からヨオロッパ遊学で、大いに学ぶところもあったのでしょう。
1872年にはヘンリー・ジェイムズはひとりでヨオロッパに足を運んでいます。その後、巴里でツルゲーネフにも会っているのです。また、ツルゲーネフの紹介で、フロベールやゴンクールやドーデなどとの親交も深めています。
ヘンリー・ジェイムズがことに好きだったのが、イタリア。ヘンリー・ジェイムズは都合、十四回イタリアを訪問しているのですから。
1906年に発表された『イタリア紀行』があるのも、当然のことでしょう。
「八月の心地よい午後ニトリの街に入れば、ピンクやき黄のスタッコの、無数のカフエの、青いゲートルを巻いた士官たちの、北イタリア風のマンティーリャにに身を身にまとった婦人たちの姿を見出だすことになる。」
ヘンリー・ジェイムズはトリノの様子をそのように書いてあります。
ここでの「マンティーリャ」は、スペインふうの、薄い、ショールに似た外套のこと。
ヘンリー・ジェイムズはロオマでは居酒屋にも入っています。
「ドアの上に居酒屋の看板であるキヅタの枝がかけてあり、その内側では陰気な丸天井の下で、いびつな玉石の腰掛けに半ダースばかりの藍色の上衣に山羊皮のズボンをはいたコンタディーにが腰をおろし」
ヘンリー・ジェイムズの『郷愁のイタリア』に、そのように出ています。
1892年にヘンリー・ジェイムズが発表した短篇に、『ほんもの』があります。この中には、次のような一節が出てくるのですね。
「それで革や酒 ー 馬具屋や乗馬ズボンの仕立屋や特上の安いクラレットの入手法 ー 」
「クラレット」は、赤ワインを意味するイギリス英語。また、「乗馬ズボン」から私は勝手に、「ジョドパーズ」
jodhpurs を想像してしまいました。
「ジョドパーズ」は、1890年頃からのイギリス英語。太腿まではゆったりして、膝下からは急に細くなった乗馬ズボンのこと。
インド西部の町、ジョドプールで、イギリス人将校が穿きはじめたので、その名前があります。
どなたか十九世紀のジョドパーズを再現して頂けませんでしょうか。