太閤は、豊臣秀吉のことですよね。
『太閤記』が豊臣秀吉の伝記であるのは、言うまでもないでしょう。
太閤の敬称はなにも秀吉にはじまっているわけではありません。
もっと古い時代から「太閤」の言い方はあったらしい。
そもそもは「大殿」(おおとの)の意味だったとか。
豊臣秀吉が「関白」を名乗るのは、1858年7月11日のこと。
その後に、「太閤」となるのが、1591年12月27日。
ということは、ごく単純に考えて関白よりも太閤の方が立派なのでしょうか。
少なくとも秀吉ご本人は太閤の方が偉いと考えていたのかも知れませんね。
明治になって「今太閤」と呼ばれたのが、伊藤博文。
伊藤博文も偉いお方だったのでしょうね。
豊臣秀吉が完成させたもののひとつに、聚楽第があります。
今の京都、上京区に建てた政庁。実際には平城でもあったのですが。
1586年の二月に建築がはじまって。1589年の九月十三日に、落成。
秀吉は落成とともに、聚楽第に移り住んでいます。
天正十六年(1588年)には、御陽成天皇聚楽第にお迎えして。四月十四日のこと。
秀吉にとっても一大行事であったのは、もちろんであります。
秀吉はまず御所に天皇をお迎えに参上。
また、銀貨など五千五百三十両を献上しています。
「それは絢爛豪華であり、深い壕と石壁で取り囲まれたその建築は、周囲が半里に及んだ。」
フロイスの古書『日本史』には、聚楽第をそのように描いています。
ルイス・フロイスは、1563年に、キリスト教布教のために、長崎に到着。
ルイス・フロイスの『日本史』を読んでおりますと。
「先頭には、濃紅色のダマスコを着た七十名の騎馬の人たちが進んだ。」
これは聚楽第への天皇のご一行の行列の様子。
ここでの「ダマスコ」damasco は、オランダ語。
英語の「ダマスク」damask に相当します。
日本語なら、「緞子」が近いものです。
凝った絹の紋織地。
その昔、シリアのダマスカスで生まれた布なので、「ダマスク」の言葉になったもの。
どなたかダマスコの上着を仕立てて頂けませんでしょうか。